愛知県で看護師として働く助産師 下田加奈子さんのコラム
妊娠中に冠動脈解離で死にかけた私が「進む!」と決めた道
【はじめに】
愛知県春日井市在住の助産師 下田加奈子です。私は「骨盤ケア・まるまる育児を知ってもらいたい!」との想いを胸に、「トコちゃんベルトアドバイザー・まるまる育児アドバイザーを取得できたら、春日井市で出張専門の助産師として活動していきたい」との夢を描いてきました。
そのため、ただいま京都トコ会館で基本整体セミナーを受講し、それらの取得を目指しています。どうして私がこの夢を追いかけるようになったのか? 子ども時代に遡ってお話しします。
【子ども時代のこと】
私は静岡県菊川市というお茶の町に次女として生まれました。母は38Kgの体で3,400gの姉を緊急帝王切開で出産。姉は重症新生児仮死でNICUに搬送され「10歳までは生きないだろう」と言われたそうです。母は最高血圧が30mmHgまで低下し、生死をさまよったと聞いています。
私は反復帝王切開、2,700gで出生、1日に7~8回も噴水のように母乳を嘔吐し、泣いて寝ないため育てるのが大変だったそうです。
ところが、姉は骨太・鳩胸で標準体重、活発な子どもに育ち、私は食が細く痩せ型、引っ込み思案でした。母が幼稚園にお迎えに行くと1人で砂場の蟻をずっと見ていたと言います。
小学生の頃は通学に片道45分かかり、下校時には走って帰宅していたせいか、足は速くリレーの選手に選ばれるくらいでした。ところが、小学5年生で初潮を迎え、貧血でヘモグロビンが6.0まで低下した後は運動が苦手になり、読書好きになってしまいました。
小学3年生の時クラスの男子がケガをして、手から血がポタポタ流れるのを見て「なんとかしなければ!」と、熱い感情が湧いてきたのを今でも覚えています。この「人を助けたい!」との想いが看護師を目指すきっかけとなりました。
【学生時代のこと】
小・中・高時代に楽しく何かに取り組んだ経験が乏しく、「自分を変えたい!」と、大学ではジャズダンス部に入部。バレエの基礎からヒップホップまで、仲間と舞台発表に向けて取り組んだ時間は今でも私の宝物です。ただ、それまで運動をせず楽な姿勢で読書を続けた私の体は、ダンスには向いていませんでした。
同じ振り付けを習っているのに、滑らかに踊る友人とぎこちない私。首をすばやく左右に振った時には、寝違えたような激痛に襲われたことも(-“-;
学生時代はターミナルケアに興味を持っていたのですが、友人から「助産コースの試験を一緒に受けよう!」と誘われ、「4年間で助産師・看護師・保健師の資格を取得した方がお得だな」と、安易な気持ちで助産コースに進みました。赤ちゃんをお世話した経験もなく、助産に関して全く興味もないまま助産師資格を取得。
就職も「人手不足の助産師の方が採用してもらえるのでは?」と思い助産師として応募しましたが、看護師になってもいいように、ホスピスがある総合病院を選びました。そんな私が、まさかの産婦人科に配属! 助産師として働くことになったのです。
【総合病院で助産師として働いて】
その頃を思い出すと、「本当にお産が大変だった…」という記憶しかありません。私が分娩担当になると、なぜか4人同時進行など、お産ラッシュが続き、1人1人の産婦さんにじっくり寄り添い、アセスメント…、なんてことはできませんでした。微弱陣痛・回旋異常…、スムーズにお産が進まないことは分かっても、それを「助産師の知識で正常に導く」という引き出しがありませんでした。異常だと分かれば医師を呼び、医療介入。そんな流れに絶望(-_-)
学生時代、助産院で卒業論文のデータを収集した経験があり、助産院で見たのは本当に温かい出産でした。「助産院で働きたい!」そんな気持ちが強くなり、すぐにでも総合病院を退職しようと思いましたが、「赤ちゃんのことをもう少し勉強をしてから」と思い立ち、NICUに移動願いを出しました。
産婦人科では、赤ちゃんはお母さんの「付属」のような扱いで、丁寧に声を掛けてケアをするということはありませんでした。しかし、NICUでは赤ちゃん1人1人が患者さん。先輩は丁寧に声を掛けてケアをしていました。保育器やコットは平でしたが、なるべく丸くなるように、バスタオルで工夫がされていました。ボジショニングが大切だと初めて学ぶことができました。
【藤枝第一助産院に就職、骨盤ケア・まるまる育児との出会い】
NICUで2年間働いた後、暖炉のある素敵な助産院 藤枝第一助産院に就職しました。そこでは、初診の時にトコちゃんベルトを用いて骨盤ケアをしていました。ナス型のGSが丸型に変化し、腰痛を訴えていた妊婦さんがスタスタ歩き、お産が進まない産婦さんには操体法・足趾回し。出産中もゴムベルトで骨盤輪支持することで出血量は減少。産後ももちろん骨盤ケアを継続。
総合病院で経験した出産とは違い、家族立ち合いの温かな出産で、産後も元気に育児をするお母さん達の姿、丸く包まれスヤスヤ眠っている赤ちゃん。「この助産院なら、母子に寄り添ったケアができる!」、毎日がわくわくの連続でした。
「骨盤ケアってすごいなぁ、これこそ、私が求めていた助産師の知識!もっと学びたい!」。そう思っていたところ、院長先生が(旧)母子整体研究会の渡部信子先生を藤枝にお呼びして勉強会を開催することとなりました。入門、基礎1.2.3.4、べびぃ入門を受講。知らないことがほとんどで、セミナーについていくのに必死でした。
その時、信子先生から「あんた、首が据わってないなぁ」と!「私の首を触っただけで、どうしてそんなことが分かるのだろう?」と意味が分かりませんでしたが、後日、私の首はストレートネックと判明しました。
ダンスで首を傷めたのも、胸板が薄いことも、生理痛が酷くて意識を失うことがあったことも…、色々なことが繋がりました。
トコちゃんの骨盤ケアを学んで本当に嬉しかったのは、生理痛がなくなったこと、夜勤を始めてから悩んでいた不眠症が、ベビハグの快眠枕でぐっすり眠れる日が増えたことです。体が楽になると心も楽になる! そんな体験となりました。
総合病院では学ぶことのできない多くのことを助産院で学び、まだまだ修行中の身でしたが、結婚し県外に住むことになったので退職しました。
【妊娠中に死にかけて】
愛知県春日井市に引っ越してすぐに妊娠、すぐに悪阻が始まり1日中気持ち悪く寝て過ごす日々。気持ち悪さに負けて骨盤ケアができず、妊娠6週のGSは細なす型。トコちゃんベルトで骨盤ケアをし、妊娠8週には丸型になりました。
悪阻が収まってからは電車に乗って出かけたりハイキングをしたり、不安なく快適に過ごしました。妊娠28週に入り、夫と鮎のつかみ取りに行く前の晩、なんだか眠れないまま朝を迎え、起きて歩き出した時に「ズキューン」と左肩を鉄砲で撃たれたように倒れ、何とも言えない気持ち悪さ、息苦しさで目を開けることさえできず、すぐに救急搬送。
医師に「過呼吸だね。帰っていいよ」と言われましたが、左腕の動きが悪いのと胸痛が残っていることを医師に伝えると、心電図検査を実施。すると、周囲が慌ただしくなり…、そこからはあまり記憶がありません。
医師に「心筋梗塞を起こしている。今から緊急手術になるから、お腹の子は諦めるように」と言われ、ただ涙を流していたのを覚えています。しかし、心エコー検査の結果、手術は中止となり経過観察入院となりました。
心筋梗塞を起こしたであろうことは分かりましたが、妊娠中のため造影剤の検査ができず、はっきりとは分からないという診断でした。搬送された病院には産科がなく、我が子が元気であるか不安はありましたが、胎動があったので安心しました。1週間の入院で退院し、実家のある静岡県の総合病院で出産することになりました。
循環器科・産科の医師からは、「前例がない。次にまた心筋梗塞を起こして救急車で運ばれても、命の保証はできない」と厳しく言われました。でも、「私は生きているし、子どもも元気。大丈夫!」と変な自信があり、トコちゃんベルトで骨盤ケアをしながら38週で予定帝王切開、2,828gの男児を出産しました。
母と同じ38Kgの体重でしたが、思ったより大きな子を出産でき、骨盤ケアのおかげと感謝の念で満たされました。
【20日間の母子分離後に、まるまる育児スタート】
産後、私は循環器科入院となり、息子は新生児室で過ごすことになりました。厳重な母体管理下に置かれ、造影剤でカテーテル検査をした結果、冠動脈の血管は修復されていましたが、心臓の一部が壊死していました。血液検査でも異常がないことから、心筋梗塞ではなく冠動脈解離の疑いと診断されました。
そんな訳で、まるまる育児をスタートできたのは、生後20日頃だったと思います。助産院でケアをしていたように、まるまる寝床を作って“おひなまき”をする毎日。子宮の中で丸まっていたおかげか“おひなまき”が好きな様子で、おっぱいを飲むのも上手で、ほとんど母乳で育てました。
息子は今月で10歳になります。体形は痩せ型で小柄ですが、体の使い方が上手で、駆けっこ・サッカー・バドミントン・ボール投げ・走り幅跳びなど、何でも得意です。これも、まるまる育児のお陰と感謝しています。
【職場復帰】
私は第2子を希望していたため、産後しばらくしてからセカンドオピニオンを求めて大阪にある国立循環器病研究センターを受診。医師の説明は「症例が世界でも4例しか残っていないということは、冠動脈解離した妊婦は死亡しているということ。今回2人の命が助かったのは奇跡的。次に妊娠したら命の保証はない」そんな説明をされ、第2子は諦めました。
産後は睡眠不足になると不整脈が出て体調不良になるため、週3日程度、日勤だけしようと決めました。産科に面接に行きましたが、多く出勤できないという理由で断られ、人生で初めての消化器内科に就職することになりました。
小児科もあるため赤ちゃんの来院もあり、多いのは便秘! 必ずと言っていいほど、生後間もない赤ちゃんが縦抱きで抱っこされています。私はお母さんにまるまる抱っこの仕方を伝え、「この方が腹圧をかけやすく便が出やすいのよ」と説明しますが、お母さんは「この子は縦抱きが好きなんです」と(>_<)
確かに、縦抱きにすると泣き止むのです。「赤ちゃんにとって大切なことを、消化器内科では伝えきれない。私は助産師なのに助産師としての仕事をしていない」そんな気持ちになることが何度もありました。
【私が「進む!」と決めた道】
助産師ブランクは11年。この11年の間、友人・知人に「教えてほしい」と依頼された時だけ、トコちゃんベルト・まるまる育児をお伝えしました。しかし、伝えることができる内容は浅く「もっと学びたい」と思い、2年前にメンテ“力”upセミナーを申し込みました。しかし、コロナ禍で流会続き…、受講できたのは今年の5月でした。
久しぶりに受講したら、セミナーの内容もケアの方法も少しずつ変わっていました。この10年でさらにお母さんと赤ちゃんの体が変化しているため、ケアの方法も工夫されていると分かり、受講するたびに「この知識とケアの方法は全ての女性と赤ちゃんにとって大切! 必要とする方に伝えていきたい」と、改めて思うようになりました。
骨盤ケアは産前・産後ばかりでなく、不妊に悩む女性にも、年齢を重ねた女性にとっても、マイナートラブルを軽減するために役立ちます。つらい症状を軽減できれば、女性はもっと楽に人生を楽しめると思います。お母さんの体が楽な状態でまるまる育児を学べば、産後は心の余裕と自信を持って子育てを楽しめます。
2020年からはコロナ禍で、病院の母親学級や両親学級がオンライン開催になったり、沐浴指導が対面ではなく動画受講になったりと、妊産婦を取り巻く環境はますます不安定になっています。お母さんが不安になった時、寄り添える助産師が病院にも地域にもいることが大切だと思います。
困った時には気軽に相談できる身近な助産師を目指して、骨盤ケア・まるまる育児 で女性の人生に寄り添える仕事をしたい。しよう! それが、冠動脈解離で死にかけた私が「進む!」と決めた道です。