京都府北部の勤務助産師 Mさんのコラム
定年後も健康な体と、確かな知識と技術を身に着けて生きたい。
【はじめに】
京都府北部の病院勤務助産師Mです。近年の出生数減少、産婦人科医減少に加え、新型コロナ感染拡大…、分娩件数はいっそう減少してしまいました。感染予防のため、妊産婦対象の各種教室は中止となり、たまに頼まれた時に骨盤ケアをしています。
「空床を有効活用せよ」との病院の指示のもと、産婦人科以外の患者さんが多数を占める混合女性病棟となってしまい、分娩は若手に任せ、我々ベテランは認知症患者さんの看護にあたっているのが現状です。
こんな私にコラムの依頼が届き、驚き迷いましたが、定年を控えてこれまでの人生を振り返る良い機会となるかと思い、引き受けることにしました。
【幼少期~中学・高校時代】
京都府北部の海と山に囲まれた農村でも、病院分娩がどんどん増えている時代に、農家である自宅で生まれました。
2歳上の兄に障害があったため、ほとんど祖父母や父親に育てられ、後日に母から「そういえば、ほとんど抱っこした記憶があらへん。縫いぐるみの脇の下に哺乳瓶を挿し込んでミルクを飲ませて、あんたは飲み終わったら寝た」と言われたことがあり、手のかからなかった子だったようです。
小学4年までは、3km近い道のりを雨や雪の日も毎日徒歩通学。冬は1mも積もった雪の上に転がって遊んでいました。女の子とよりも男の子と遊ぶ方が多く、おにぎり持って山に入り、夕方に帰って来たこともありました。小学5年からは4kmを自転車で通学。放課後は男子と互角にソフトボールを楽しんでいました。
中学ではバレーボール部に入ったものの、ギリギリ人数の弱小チームだったため、私好みのストイックな練習はできず…、この頃から反抗期が始まり高校卒業まで続きました。
高校は船通学で10分間歩く程度。帰りの船の時間が早かったため運動部に入ることもできず…、環境の変化について行けず…、とても大人しく存在感のない生徒でした。卒後5年経ったときに1年生の時の担任と再会したのですが、覚えてもらえていなかった…(-“-;
【助産婦を目指して】
高校3年で進路選択するにあたり、周りから「手に職を!」と勧められるまま、看護学校へと進学しました。入学してみると勉強より実習が楽しく、毎日、記録に追われていました。母性実習に行ったのは「卒業したら看護婦として働く! 進学しない」と決めた後だったため、地元の公立病院に就職しました。
同級生と「3年働いてお金を貯めて、一緒に助産学校に行こう」と約束していたのを思い出したのは、就職して3年過ぎた頃でした。すぐに彼女に連絡したところ「私は看護婦でやっていく。あんた一人で頑張りな」との返事(-“-;
どうしようかと悩んだ末、母性実習で褥婦さんに「あんた助産婦になんな。あんたが傍におってくれるだけで安心できた」という言葉を思い出し、人間関係などのストレスから逃れたいとの理由もあって進学を決意。9月から受験勉強を始め、自分を追い込むために12月で退職し受験しました。
2校目で合格。その学年の最年長として入学しました。現役入学生にはなかなか付いて行けず、卒業式の日になっても課題が残ったまま…。校長の印鑑がない卒業証書を渡され…、課題修了できたのは3月の半ばで、その2日後にようやく印鑑をもらえました。国家試験にも無事合格し、晴れて助産婦となりました。
【働きながら 第1子出産】
前に勤務していた病院に助産婦として就職し、27歳で結婚しました。すぐに妊娠したかったのに、なかなか妊娠せず…(-“-; 周りからのプレッシャーも凄かったため、几帳面に基礎体温を測り、記録し、海外旅行にもガラスの体温計持参で行きました。
どんどんストレスが溜まったため、基礎体温を測るのを止め、夫に「あと半年妊娠しなかったら一緒に不妊治療通って」と言った2か月後に妊娠が判明(^O^) ストレス禁物と実感しました。
つわりもなく楽しく妊娠生活を送っていましたが、あと数日で産休という妊娠31週で10分毎の痛い子宮収縮が起こり、「陣痛? 出血はないけど」と思いながら受診すると、子宮口は1指開大(当時、頸管長は測定不可)、切迫早産で入院(-“-;
子宮収縮剤の点滴ですぐに子宮収縮は治まったのに、副作用の動悸に耐えられなくなり2日間で中止してもらいました。その後は子宮収縮もなく、子宮口も開かず、妊娠35週まで25日間の入院後に退院。その後も快調で体重は15キロ増加! 妊娠41週で出産しました。病院職員ということで、分娩体位になってからですが“立会い分娩 第1号”となりました。
母乳哺育をしていたのですが、30分泣かせてから飲ませ、寝かせるときは足のないアイロン台にタオルを敷き、うつ伏せで寝かせました。何も疑問に思わず教えられた通りに実践していました。
【第2.3.4子】
第2子の妊娠中は食事に気を付け、減肥茶を飲んで体重増加は8キロ以内に抑えました。減肥茶の瓶には「妊婦は飲まないように」との注意書きが最後の方にあったのに、気付いた時はすでに遅し、子宮内での胎児発育が悪くなって入院(-“-; 毎日点滴を受け、10日間で400?増加し、2620gで出産しました。
第3子、第4子ともに妊娠中は大きなトラブルなく過ごしました。第3子出産時は、上の子が発熱し、看病のため夜間不眠状態で陣痛発来。ところが、なかなか進行せず焦っていると急に強い眠気に襲われて2時間熟睡。目覚めると強い陣痛が来てあっという間に生れ、睡眠の大切さを実感しました。
夫の家族と同居だったので、4回の出産とも育児休暇を1年とり、仕事を続けることができ、このまま働き続けられると信じて疑わない日々が続きました。
就職して12年目(2002年)に法律が変わり、助産婦は助産師と呼ばれるようになったその年、産婦人科は閉鎖となってしまいました(-“-; 背に腹は代えられず同じ院内で看護師として働いていた4年目、内科医総辞職からそのまま病院閉鎖(゜o゜)。今から16年前(2006年)、今の職場である病院に勤務しました。
【骨盤ケアと出会って】
再就職し病院では分娩直後のパットが“トコ式”で、妊娠中から着けられる“トコちゃんベルト”というものがあることを初めて知りました。
翌年、看護研究委員に指名され、何をしようかと雑誌などを調べていたところ『骨盤輪固定で産後の出血が減少』という報告を目にし、「うちの病院でもどのくらい減ったのかやってみたい!」との衝動に駆りたてられました。
「研究に取り組むためには“骨盤ケア”なるもの知らなくては」と、渡部信子先生の骨盤ケアのセミナーを受講。操体法の不思議さと信子先生の話を聞くうちに、「あれっ、私は子ども達に良くないことばかりしてきたんだ、子ども達の不調はここから来ているのかも? もっと早く知っていれば…」と、後悔させられることばかり。
セミナーで学んだことはすぐに忘れてしまうので何度か受講し、(旧)母子整体研究会のセミナーにも通いました。
少しずつ理解を深め看護研究に取り組んだところ、出血量に有意差は出ませんでしたが、子宮収縮剤の使用が減少したことを発表できました(^O^)
出血量減少に結び付けられなかったのは、骨盤輪固定手技が人により様々で、上手くできていないことや、固定すらしていないことがあることがわかり、指導の難しさを痛感しました。
このことがあって、トコちゃんベルトアドバイザーを取りに行ったのですが、1回目は不合格、2回目でようやく合格\(^o^)/
その直後、信子先生に「あんた、何ちゅうひどい姿勢なんや」と言われ、施術していただいたところ、そこらじゅうからグキッ・ポキッっと音が出て、体がスッキリし視界が広くなったのを覚えています。
自宅に帰るや否や子ども達が「オカン、真っ直ぐになっとる!」と。そんなに直ぐにわかるほど私の体はゆがんでいたのか…、そう言われると、ブラジャーの左紐がズリ落ちやすかったり、あぐらや横座りを長時間続けた後、歩行困難となったり…。助産学生時代までさかのぼると、目をつむって両手を真っすぐ横に伸ばすテストをした時に、ずいぶん右腕が上がっていると指摘されたことがあっことを思い出しました。ゆがみは多少自覚していたものの「これほどだったのか…」と、信子先生の凄さをまたまた実感しました。
【職場で活用】
アドバイザー資格取得後は、切迫早産で入院中の妊婦さんにベルトを着ける程度のケアだけはしていましたが、「せっかく資格を取ったんだから」と、師長の勧めで妊婦さん限定の教室を月1回開くようになりました。
その中で、あまり自覚されていないゆがみのある妊婦さん達の施術をできるようになりたくて、トコ・カイロプラクティック学院のベーシックセミナーを受講したいと考えるようになりました。でも、「個人資格だから、行くなら全額自費、自分の休みを使って」と言われ、子ども達にお金がかかる時期でもあり、資格更新にとどまっていました。
次の更新に向けてセミナー受講準備をしていると、新型コロナの影響か受講生が集まらずセミナーは流会、東京へも行けずに資格失効となってしまいました…(涙) この頃から集団指導での教室は全て中止となり、個人指導となりました。そのうちに新型コロナ感染拡大により、個人指導すら中止となりました。
トコ企画の新生児セミナーを受講し病院に帰って実践していると、同僚や褥婦さんから「Mさんが勤務している時は、赤ちゃんは泣かずによく眠る。不思議…」と言われ、ハッ。そう言われて新生児室を見渡すと、抱っこしづらい赤ちゃんや、母乳が上手く飲めず、哺乳瓶も上手く吸えない赤ちゃんが増えてきているように感じました。
また、妊娠初期のエコーを見ていると、背中がピーンと伸びている胎児が多く、そのままの状態が続き、回旋異常や胎児心拍低下で帝王切開になってしまうケースを見受けるようになりました。
そんな現実を目の当たりにし一念発起。2015年12月、“まるまる育児アドバイザー”の資格を取得し、少しずつですがゲップの出し方や、まるまる抱っこの仕方も浸透し始めました。でも、「小児科入院になった赤ちゃんのポジショニングこそ必要!」と思ったのに、小児科医と意見が合わず、実現していません。
【“定年”がチラつくようになり】
そうこうしているうちに膝の調子が悪くなり、正座もつらく、“まるまる育児アドバイザー”の更新も断念(-“-; 58歳になり“定年”という言葉が目の前にチラつくようになると、「ここで働けるのもあと2年や。もうこのままでええわ」と、諦観するようになってしまいました。
ところが、定年制度延長の指針が発表されましたが来年度からの実施で、最後の60歳定年(-_-;)「再雇用としてまだ5年間働けるなら、もう一度アドバイザーの資格を取ろう! そして、定年までは病院で、定年後は保健センターなどでケアに当たりたい。しよう!」と思うようになったところに、京都で基本整体が開かれることを知り、早速申込みました。
8月に2日間受講し、9.10月と2日間ずつ受講する予定だったのに、またもや膝の調子が悪くなり断念。しっかりと治療して次回の基本整体に臨みます。待っててくださいね。
妊娠初期の胎勢の悪さ→回旋異常・胎児心拍低下で帝王切開→泣いて反って寝ない赤ちゃん→ツライ育児…、こうならないように妊娠初期からのケアが大切と痛感しています。そして、定年後は母と児の将来が少しでも明るくなるよう、開業して働き続けたいと思っています。そのためには、健康な体と、確かな知識と技術を身に着けなければなりませんね。頑張ります!