東京都内で働く、空手助産師Yさんのコラム
ポンコツ助産師から戦う助産師への変貌を目指して
【はじめに】
東京都内の産科クリニックで勤務しながら、細々と骨盤ケアで開業している助産師Yです。今回コラムを書くにあたり、「これまでのコラミストのような高い志も熱い情熱もない私が、書いていいのだろうか?」と思いましたが、「これからの助産師活動に向けての、決意を新たにする機会にしよう!」と、初心に戻って書くことにしました。ポンコツ助産師のコラムですが、お付き合いいただけたら幸いです。
【子ども時代】
首都圏にある団地で育った私は、2歳年上の兄に「ケンカで負けたくない。強くなりたい!」といつも思っていました。そのせいか、パンチやキックなどの素手で戦うヒーローに憧れている子どもでした。
体を動かすことが大好きで、学校の休み時間は校庭で走り回り、帰宅後も強くなりたい一心で、暗くなるまで団地内を何回も走り回っていました。
今でこそ肉好きの食いしん坊ですが、当時は食が細く痩せ型。ろくに食べずに動きまくったことによる自家中毒で、何度か病院で点滴を受けたこともあったほどでした。
小学5年生の時に「オスグッド病」になり、運動制限をされてしまったのですが、走れないのが苦痛で、少しでも良くなると動き回っては悪化…、の繰り返し(-“-; 整骨院や整形外科通いの日々を送っていました。
【看護婦に】
中高生になると、母から「看護婦になりたかった」という話を何度も聞くようになり、資格を持って自立して働ける看護婦を目指し、東京大学医学部付属看護学校へ進学。卒業後は整形外科で働きたくて東大病院に就職したのに、希望は叶うことなく婦人科病棟に配属 (-“-;
当時、産婦人科看護スタッフの9割が助産婦で、休憩時間に先輩方が話す分娩介助の話がとても興味深く、「助産婦って楽しそう」と感じるようになりました。今思えば、この時に婦人科病棟に配属されたことが、助産婦になる大きなきっかけでした。
【空手メインの2年】
兄の影響で実践空手の存在を知り、12歳の時に池袋の総本山の前に立った時、不思議な感覚に包まれ、「ここに入門する」と、運命のようなものを感じたのです。ところが、通える範囲に道場がなく、念願の入門を果たした時は、すでに19歳になっていました。
もともと背も低く細身の体なのに、長年にわたるトレーニングのおかげか、男性と同じ稽古にもついていけました。でも、組手となるとそうはいきません。体格・筋力の差を痛感しながらも、技を覚えるのが楽しくてたまらず、次第に「空手メインの生活をしたい」と思うようになりました。
でも、東大病院に就職した後は思うように稽古に通えず、2年後に退職し、夜勤専従勤務のできる病院に転職しました。稽古は午前・午後・夜の3部制だったので、夜勤明けの日は仮眠をとってから午後の稽古に、準夜勤務の日は午前の稽古にと、週5~6日、多いときは1日2~3回通いまくり。
並行して体格アップを目指しジム通いで筋トレに励んだところ、オーバーワークで体重は減ってしまいましたが、念願の黒帯を取得\(^o^)/ しかし、そんな空手メインの生活を約2年間続けた後、体調を崩し、勤務以外はほとんど寝て過ごす日々という、本末転倒な状態に陥ってしまったのです(*_*;
【進学し、助産婦に】
体調を立て直すため、日勤のみの巡回健診の仕事に変えたことで体調は回復。と同時に、自分の経験や健診業務にかかわることで“病気にならない体作りの大切さ”を痛感し、保健婦学校への進学を決意しました。
目指したのは産業保健婦で、都内の保健婦学校を受験することにしたものの、助産婦への夢も捨てがたく、1年間で助産婦・保健婦の資格を同時に取得できる九州の学校も受験することにしました。
そんな時でした。1995(平成7)年1月17日、阪神淡路大震災がおこり、「どんな状況でも、新たに生まれる命を守らなければ!」との、熱い想いが沸き起こって来たのです。
2校とも合格していたため、周囲の声は当然「都内に進学するように」でしたが、そんな声を振り払って、全く縁のない県立宮崎保健婦助産婦専門学院への入学を決めました。
1年間で2つの資格を取るため、かなりハードなカリキュラムでしたが、久しぶりの学生生活を思い切り楽しみ、3~5年は助産婦の経験を積もうと、鹿児島県にある分娩件数の多い産婦人科病院に就職。当時は「助産婦経験を積んだ後に女性が活躍する会社に就職し、お産や育児にも詳しい産業保健婦として、働く女性のサポーターになろう」と思っていました。
ところが、分娩介助や乳房ケア…と、忙しくも充実した日々を過ごすうちに、「赤ちゃんは可愛いし、助産婦って楽しいかも」と思うようになり、東京に戻ってからも、総合病院の産婦人科に就職し、助産婦として働き続けました。
【骨盤ケアとの出会い】
仕事にも慣れ、スキルアップを考えるようになった頃、腰椎椎間板ヘルニアを発症。休憩時間に何気なく手にした雑誌は「助産婦雑誌」ではなく、「助産雑誌」となっていました。この少し前、2002(平成14)年3月に法律が変わり、助産婦の呼称は助産師となったため、雑誌の名前も変わったのでした。
その雑誌に「恥骨結合離開の方を、あなたの手で歩けるように」とのキャッチコピーのセミナー広告が目に(@o@) 気にはなったものの、当時はまだトコちゃんベルトも骨盤ケアも知る人は少なく、「母子整体研究会」という名称も何となく怪しげで、体調も悪く、受講という行動には移せませんでした。
1年近くたってようやく入門セミナーを受講したところ、座学は充実で目から鱗、実技では自分の体がどんどん楽になるのを実感し、すぐに次の基礎セミナーの受講を申し込みました。
職場でも、産後のママ達に操体法を指導し、トコちゃんベルトで骨盤輪を支えると半日でむくみが取れたり、腰痛が改善したり…、うれしい反応にウキウキ。ますます骨盤ケアが楽しくなり、トコ・カイロプラクティック学院のオステオパシーセミナー・カイロプラクティックセミナーと進みました。
【開業】
実家近くに市で初めての総合病院ができることを知り、産婦人科立ち上げスタッフとして入職しましたが、産科医不足のため、オープン1か月前になって産科の開設は見送りに…(-“-;
集まった助産師が辞めていく中、週1回の婦人科外来と、内科・外科・循環器科・救急などの外来で、貴重な経験を積めたものの、1年半たっても産科開設の見込みはなし。「産科のある病院に戻ろう!」と決意し、お産の現場から離れていたためリハビリのつもりで、開院したばかりの産科クリニックに夜勤パートで就職しました。
同時に再びトコ・カイロプラクティック学院と母子整体研究会(現 母子フィジカルサポート研究会)のセミナーを復習受講していくうちに、入院中だけでなく退院後のケアの必要性を強く感じるようになっていきました。
そこで、出張専門の開業届を提出し、セルフケア中心に母子のケアを始めました。
産科病棟で産後早期の母子のケアを中心に行ってきた私には、ちょっとした冒険でしたが、渡部先生から高輪サロンの施術補助・受付に誘われたり、先輩方から訪問でのケアに役立つようなセミナーに誘われたりと、学ぶ機会をいただき、なんとか続けることができました。
他にも、産院での骨盤ケアや、先輩がオープンした助産院兼サロンでの骨盤ケア教室の講師など、声をかけていただいたのにコロナ禍に突入。教室の開催や訪問ケアが難しくなってしまい、やむなく、産科クリニックと、地域の保健センターで働きながら、再開の準備をしています。
【セルフケアを広めたい】
地域で仕事をしている中、産後1か月以降イッキにご家族のサポートが減ることが気になってきました。1か月たてば妊娠前の体に戻るわけでもなく、赤ちゃんがいきなりよく寝てくれるわけでもなくいのに、なぜ? サポートが減ることで母の負担は大きくなっているはずなのに…。
各自治体も産後ケアの充実を図っていますが、私も体の面から母子の笑顔が増えるようサポートしていきたいと思っています。テイクケアだけでなくセルフケアも広め、産前産後の女性が、自分の状態に合ったセルフケア体操を選んで実践でき、「定期メンテナンス、及び、セルフケアで解決できないときのみ、ケアを受ける」これがスタンダードになることを目指して。
【伝えたいことと夢】
思えば、空手でも職場でも、骨盤ケアの学びでも、ずっと師匠・上司・先輩・仲間に恵まれてきました。手を差し伸べてもらったり、お尻を叩いてもらったりしながら、いつの間にか助産師が一生の仕事になっています。
もしも、ケアや学びに自信を持てず、どうしていいか迷っている方がいれば、伝えたいことがあります。「続けていけばきっと道は開けるよ」と。
そして、「私も誰かに手を差し伸べられるようになれますように」と願いつつ学びを続け、母子に還元していくつもりです。
最後に、椎間板ヘルニアで消えたはずの空手の熱が、渡部先生の影響で再燃してきました。体の使い方やケアの方法を知っている今の方が、以前よりも強くなれる気がします。楽な体、思い通りに動ける体作りに役立つ空手を、一人でも多くの人に伝えられたらいいなぁ、末永く仕事も空手も続けられたらいいなぁ。もしかしたら、これからの夢は“戦う助産師”になることかも?!