大阪府の総合病院勤務助産師 磯貝佳子さんのコラム
紆余曲折・離婚後に初産、両親の死からたどり着いた道

 
【はじめに】
初めまして、大阪府東大阪市の総合病院の外来部門で働いている助産師の磯貝佳子と申します。産婦人科・内科・乳腺外科など、日々異なる科で、妊産褥婦だけでなく、様々なライフステージの方々へのルーティン業務だけで、1日が終わってしまう毎日…(-“-; 
どうして助産師になったのか? どんな仕事がしたかったのか? これからどんな仕事ができるのか? 初心に返ってこれからの人生を考えてみたく、コラムを書いてみることにしました。

【学生時代の進路変更】
高校時代、私の両親は「女は高校卒業したら就職するものだ!」と、私の進学には猛反対。しかし、私は勉強するのに男女に差はないと進学を希望。子どもの頃から医療系のドキュメンタリーやドラマに興味があり、人助けになる仕事がしたいと思い、医療方面への進学を考えました。
しかし、理科が苦手であること、命にかかわる職業という責任の重さから自分には出来ないと考え、断念。
当時、英語が得意であったことから外国語大学への進学を決心。私立の外国語大学に合格するも家計が厳しく、私学への進学は許可されず、浪人。
入学した予備校の担任が外大出身。担任に「外大進学して何がしたいの?」と問われ「日本と外国の橋渡しがしたい」と答えたところ、「語学は道具。やりたい仕事のために必要な学部を選びなさい」とアドバイスされました。
そして進学先に選んだのが法学部。浪人するも希望の国公立大学は不合格。自宅から通学可能な京都府内の私立大学の法学部に入学。
人助けになる仕事がしたいと司法試験を志すも学費を稼ぐために毎日バイト生活、十分な勉強時間を確保できず司法試験を断念。

【会計事務所へ就職】
そして迎えた大学3年の就職活動。バブル崩壊後の超就職氷河期、周囲の学生は1人100社以上の会社に資料請求する中、私は税法を活かした仕事をしたいと業種を絞って就職活動。
就職活動の傍ら、税理士を目指して簿記の勉強をスタート。希望の会計事務所に就職後は働きながら税理士試験の勉強を開始。税理士試験のうち、1科目に合格。

【妊娠・結婚・離婚・出産】
税理士試験2科目目の受験勉強中に妊娠が分かり、結婚。ひどい悪阻に苦しみながらも税理士試験受験。その後、人として信頼出来なくなる夫の言動があり、離婚を決意。
周囲には子どもの顔を見れば変わるかもしれないからと離婚を止められるも信頼を回復させることはできず、出産2ヶ月前に離婚。
そして、1月の寒い日、前期破水にて入院、入院時は陣痛に気づいていなくて、入院して7時間半後に分娩、超安産でした。
今思うと、破水でナプキンが濡れるたびに気持ち悪くてトイレと病室を往復し、自然と歩いてスクワットしていたんですね。
通院する産婦人科クリニックのスタッフと両親に支えられ、無事出産できたことに感動、分娩直後は感謝と感動で涙が止まりませんでした。

【父の死と母の病気をきっかけに】
私が28歳、息子1歳の時、父は近所の病院で風邪と言われ続けて約半年、やがて、嘔気・嘔吐、ふらふらで歩くのもままならない状態に陥りました。
家族全員で「おかしいから総合病院へ行こう」と病院嫌いの父を説得し、連れて行ったところそのまま検査入院。
食道と気管には隙間がないくらい肺癌が増殖していて、胸水も溜まっていて、すでに全身に転移していることが判明。肺癌末期であることがわかりました。
抗癌剤治療がよく効くタイプの癌だったため、主治医は最後に父が少しでも口から食事が摂れるようにと、抗癌剤治療をしてくれました。
プリンを食べたのが最後となり、治療開始の2日後に亡くなりました。入院して10日目の、あまりにも急な死でした。
私たち家族は父の死を受け入れられず、母はショックでしばらく寝込んでしまいました。そして父の死から約2年後、今度は母が下血。近医で大腸カメラにて大腸癌と判明したのです。

開腹手術するも進行癌であったため追加治療のため抗癌剤治療開始。手術から半年後、肺転移。1年半程は抗癌剤治療に苦しむも肺転移の進行は止まらず。諦めかけた頃、抗癌剤を変更し、劇的に癌の進行が緩やかに。副作用も軽く、母は元気を取り戻し、アルバイトへ行ったり、旅行へ行けたりできるほどに体力が回復。

【税理士への道をふさがれ、看護師に】
私が税理士試験の勉強を再開しようとした矢先に父の死、そして父の死から皆が落ち着き、再度税理士試験勉強を再開しようとした時に母が癌に。この時私は、両親があなたの進むべき道はそちらではないよと教えてくれたような気がしました。
かつて興味を持ったが、責任の重さに断念した医療への道、両親の看病をしながら医療についてもっと知りたい、看護師になりたいという思いを母に伝えました。
いつも私の進路に反対してきた母が、「人生何があるか分からない。やりたいと思ったことは行動しなさい」と背中を押してくれました。
そして看護学校受験。何の準備もしていなかったので通りませんでした。翌年、高校の勉強を1からやり直し、たまたま夏にオープンキャンパスへ行った大学で2年次編入の募集があり受験し合格\(^o^)/
翌4月、息子の小学校入学と同時に、私も看護学部へ入学したのです。

【助産師への道】
私が看護学部へ入学した年の12月までは、母は比較的体調が良くアルバイトしながら抗癌剤治療を受けていました。
そして12月上旬、抗癌剤治療のため病院受診した際、血中酸素飽和度が90%を割っていて、そのまま入院。12月末には亡くなりました。「いつ最期が来てもおかしくない」と主治医に言われてたので覚悟はしていましたが、母の死を受け入れるのに時間がかかりました。

両親の死を通して、精神的な支えを無くした今の自分には、死にゆく人を支える看護はできないと感じ、病院で唯一「おめでとう」のある場所で働きたいと思うようになりました。
私の出産時にかかわっていただいた助産師のように、妊産褥婦を支える仕事がしたいと思ったちょうどそのとき、大阪市内できょうだい2人が母親のネグレクトにより虐待死するという、痛ましい事件が起きたのです。
「周囲の支えがあればこんな事件は起きなかったのでは? それができるのは、妊娠前や産前からかかわれる助産師ではないだろうか?」と考え、助産師を目指すことにしました。

【助産師になったものの】
そして、無事に看護師・助産師・保健師に合格。助産師として就職して、いざ現場に出てみると、腰痛・恥骨部痛・子宮脱などマイナートラブルを抱えた妊産褥婦の多いこと! 正常と言える分娩はほとんどなく、回旋異常・遷延分娩・帝王切開の多さに愕然(-“-; 

症状を改善させ、自然なお産ができるようなスキルを身に着けたくて、メンテ“力”upセミナーを受講したのがちょうど5年前の3月。これを皮切りにセミナー受講にハマってしまいました。3年前にはトコ・カイロプラクティック学院のカイロプラクティックセミナーを京都で受講し修了したのに、現場では活用する暇はなく、ルーティン業務をこなすだけで1日が終わり…。
外来で働いて得られる収入だけでは息子の学費を稼ぐこともできないのですが、
会計事務所で働いていたおかげで、そちらでアルバイトさせてもらえて助かっています。
でも、毎日ヘトヘト。こんなことでは、何のために助産師になったのかさえ、わからなくなってしまいました。

【これからの夢】
考えあぐねた末、たどり着いた結論は「開業助産師になろう!」でした。そのため、今、名古屋でカイロプラクティックセミナーを復習受講しています。
開業助産師として得られる収入だけでは、生活していけるとは思っていませんが、病医院や会計事務所でアルバイトをすれば、何とかなる見通しはあります。
したい仕事をしないまま人生を終えたくはありません。赤ちゃん~妊産婦~高齢者、あらゆる年代の女性に助産師らしくかかわり合い、納得できる仕事をしたいなぁ。孫を“まるまる育児”で育ててみたいなぁ。今の私の頭の中は夢でいっぱいです。