埼玉県のクリニック勤務助産師 川嶋秀美さんのコラム
脳性麻痺児を含む4児を育てながら、働き続ける私の夢

 
【はじめに】
東京練馬区に住む助産師 川嶋秀美です。出産前に旧母子整体研究会で基礎セミナーを受講し、今は2男2女の子育て真っ最中です。
3人目の子は超低出生体重児・脳性麻痺です。子ども4人を育てながら、様々な職場で働きながら、葛藤を乗り越えながら、骨盤ケアに戻ってきました。

【看護師ではなく助産師の道に】
高校生のときに祖父が亡くなり、小さいころから看護師になりたいと思っていた私は、母に「この子は看護師になりたがっているから、エンゼルケアに一緒に入らせてあげてください」と頼んでもらいました。
立ち会わせてもらい、ショック。「看護師は亡くなる場に立ち会わないといけないんだ。それより、感動の場に立ち会う方がいい」と思い、助産師を目指すようになりました。
「助産師は分娩介助も乳房ケアも、自分の五感と腕一つでできる」と思っていたことも理由の一つです。

【骨盤ケアとの出会い】
熊本の看護学校を卒業、神奈川の助産師学校を卒業。熊本で就職して3年目に、恥骨結合離開で苦しむ褥婦さんに何のケアもしてあげられず、「どうしたらいいのだろう」と助産雑誌をめくったときでした。“骨盤ケア、トコちゃんベルト”という言葉が目に飛び込んできたのです。
熊本や福岡でセミナーを受講し、恥骨結合離開にはトコちゃんベルトが有効であることや、妊産婦の様々な症状改善や、健康な母体作りに骨盤ケアが大切であることを学び、面白さにハマって基礎セミナーまで修了しました。

職場で広めていきたいと思っても、経験が浅かったのもあり、できたのは自分が受け持つ妊産婦さん・先輩・医師に整体を施すくらい…。勉強会も開けなかったけど、骨盤ケアに興味を持った先輩はセミナーを受けてくださいました。

【引っ越しを繰り返しながら 4児を出産】
結婚して北海道の病院に勤務してからは、渡部先生に2回来てもらってセミナーを開催。職場の同僚をはじめ北海道の各地から受講して下さり、勤務している病院でトコちゃんベルトが購入できるようになりました。
「もっとできるようになりたい。オステオパシー・カイロプラクティックも学びたい」と思ったちょうどそのとき、第1子の妊娠が分かりました。
しかも、重症悪阻で入院…(-“-; 研修受講を諦めざるを得なくなりました。

夫の転勤に伴い、北海道・神奈川・兵庫・香川・東京と、短いときは1年半で転勤。そのたびに私も転職しました。
福岡出身なのに、学生時代に熊本・神奈川・熊本と引っ越して、引っ越しは慣れっこのはずなのに、子どもが増えれば増えるほど、引っ越しは大変になりました。

1人目の妊娠は北海道で分かり、妊娠初期は重症悪阻で16日間入院しましたが、その後はトコちゃんベルトを着用し快適な日々を送りました。出産に向けて退職し、助産師である妹が勤務する福岡の総合病院で里帰り出産をすることにしました。
私自身は4,023gで生まれたのに148センチと小柄。帝王切開を覚悟していたのに、実家のサポートもありノンビリ過ごせたせいか、39週2日、分娩所要時間9時間40分、自然分娩で2,395gの男児を妹に取り上げてもらいました。

2人目の妊娠は北海道にいるときに分かり、またもや悪阻で入院。その後、神奈川に転勤となり、神奈川の助産院で出産しました。38週5日、2,810gの男児、分娩所要時間4時間15分で安産しました。
夫が出張中だったため友人が立ち会ってくれて、長男が夫の代わりに臍の緒を切ってくれました。
産後も友人の家にお世話になり、実母が来てくれたのは1日だけで、さすがにこのときはマタニティ―ブルーになりました。

【3人目を早産、“まるまる育児”!】
3人目の妊娠は兵庫県に転勤したときに分かりました。初めての官舎暮らしでヤンチャ坊主2人を育てながら、ストレスの多い毎日でした。
このときも悪阻がひどかったのですが、入院はせずに通院で点滴をしてもらい、助産院の健診に通っていました。
だんだんお腹が張り始めて、総合病院を受診しリトドリンの内服をしていたのですが、陣痛が来てしまったのです。
助産院での出産が難しくなり、総合病院からさらに地域周産期救急医療センターに緊急搬送され、すぐに緊急帝王切開。756gの女児、24週5日の早産。NICU、GCUに半年通いながら「骨盤ケアを学んだ助産師なのに…、恥ずかしい限り」と自分を責め続けました。

NICU退院後、ちょうど骨盤ケア・“まるまる育児”を学び始めていた妹が遊びに来て、娘を“おひなまき”にしてくれました。しばらくセミナーから遠ざかっていた私は、このとき初めて“おひなまき”と“まるまる育児”を知ったのです。

【脳性麻痺と診断されて】
出産する前に早産によるリスクが頭を横切りましたが、出生時は産声も上げたので安心していたのに、生後5日で消化管穿孔を起こしストマ造設。生後1カ月頃に脳室内出血を起こし、重度の脳室周囲白質軟化症と診断され、いわゆる脳性麻痺になりました。

そう言われても足はバタバタと動かしていたので、「こんなに元気に動いているのに脳性麻痺だなんてあり得ない」と思い、担当医に「本当に脳性麻痺なのでしょうか?」と何度も聞いていました。
とにかく、先の見えない子育てになりそうな不安から、「寝たきりにならないように、まずは情報収集をしよう」と考え、NICUの看護師さんに「同じような境遇にあるお母さん達と話をさせてもらいたい」と頼みました。すると、「そんなことを言うお母さんは川嶋さんが初めてです」と言われて、ショック。

【助産師として自信喪失 4人目】
早産したことで自分を責め続けていたときに、助産師から冷ややかな言葉を浴びせられたことがあり、「早産し脳性麻痺の子を持つ私は、もう助産師として働けない」と諦めました。
ところが、ちょうどそのとき、長女を出産した施設が助産師を募集していることを知りました。面接で子どもがお世話になったことや、早産児のケアをしたいことを伝えたところ、採用してもらえたのです!
働きながら、「皆、先の見えない不安を抱えながら過ごしているのだろうか?」と、悶々としながらも、病院で育児サークルがあったので、その場を活用しようと考えました。
NICUで出会ったお母さん達に声掛けて、いろんな不安など話せるような場を作りたいと思ったものの、情報が少な過ぎて本当に困りました。
その4か月後、香川に転勤・引っ越しとなったため、このサークルにも1度しか通えず…(-“-; でも、そこの助産師さんと今もつながっていて、長女の様子を伝えています。

4人目の妊娠は香川転勤後に分かりました。「脳性麻痺の子がいるのに育てられるのだろうか? 前回早産なのに正期産できるのだろうか?」との不安に加え、子宮頸管長2cm(-“-;
第3子の担当小児科医から「28週になったら何とかなるから」と励ましてもらいながら、トコちゃんベルトを着け、内服と自宅安静を続けた結果、37週6日、2,646gの女児を、予定帝王切開で出産しました。

【助産師復帰】
障がいのあるお子さんを育てているお母さん達から情報をもらいたくて、家族の会などに参加しながら、細々と健診センターで看護師として働いていたときのこと、ダウン症のお子さんのお母さんから「私はあなたのような障がいをもった子どもを育てている助産師に、お産に立ち会ってもらいたかった」と言われたのです(@o@)
これをきっかけに、「こんな私でも必要とされることがあるのかも?」と、諦めていた助産師復帰を考え始めるようになりました。

北海道から離れて以後8年間、障がい児のベビーシッター、新生児訪問、助産院のお手伝いなど、ご縁のあった仕事をさせてもらっていました。7年前に東京都内に引っ越してからは、総合病院に就職しお産の現場復帰を果たしました。
若い人達に最近の分娩事情を教えてもらいながらパート勤務をしていたのですが、その後さらに都内に引っ越したため、通勤が大変に…。そこで、練馬に自宅を構え、自宅から近い埼玉県のクリニックに転職し現在に至ります。

驚いたことには、そこの医師がトコちゃんベルトを推奨していたのです! それで、メンテ“力”upセミナーを受けに行く機会をいただき15年ぶりに渡部信子先生と再会。
そのとき、「脳性麻痺の子を連れて施術においでよ」と声かけられたのですが、
実は、それまでも助産師である妹から「早産したことを渡部先生が心配して、連れておいでとおっしゃっているよ」と聞いていたのです。
でも、助産師から冷ややかな言葉を浴びせられたトラウマから、先生と顔を合わせるのが怖かったのです。

【渡部信子先生の施術を受けて】
でも、長女が9歳になり、意を決して渡部先生の施術を受けに高輪サロンに行きました。「何を言われるだろうか?」とドキドキしていたのに、長女を一目見るなり、「思ったよりいいね、ケアが良かったんやな~」と(@o@)
9年間「助産師の仕事を諦めたくない」という気持ちと、「長女を寝たきりになんて絶対にさせない!」との意思のもと、脳性麻痺にいいと言われている集中リハビリ・訪問リハビリ・整体・鍼灸・加圧・水泳…などなど、ありとあらゆることを受けさせました。
もちろん、「整体もいいのでは?」と思いながら、時々は麻痺の強い方の手のケアをしてみたり、足趾を回してみたり、麻痺が強い左側はどうしても緊張が強いのでマッサージしてあげたり、記憶に残っている学んだ技を施していました。
リハビリに通っていて思ったことは「座位もできないのに、歩行練習させるの?!」と違和感を覚え、整体で学んで得た知識と技を施して、疲れやコリを癒していたことなどが良かったのかもと、嬉しく思えました。

信子先生の施術が始まると、長女はニコニコして気持ち良さそう(@o@) リハビリは泣いて嫌がることが多いのに、違いが分かるってこと?!
施術開始から1分後には自分で足を動かして、足首をクロスさせなくなり、さらに\(@@)/ 施術前は、両下肢はピーンと伸ばして、足首をクロスさせたまま動けなかったのに…。
それから上半身の施術が始まり、数分後には麻痺の強い左手も使って、両下肢を少し動かしながらズリバイするようになったのです! それまでは右手だけ使って、両下肢を伸ばしたまま引きずるズリバイしかできなかったのに…。
最後に、小林先生に“こどもまき”を教わりながら包んでもらったところ、いっそう体を柔軟に動かすようになり、またまたビックリ!

「もっと早くに来ていたら、もう少し違ったのかも知れない」と思ったのですが、脳性麻痺とわかってから、前向きになるのに時間がかかりました。徐々に「自分にしかできないことがある」と気づき、少しずつケアできるようになりましたが、長女を本当に受容できるようになるのに3年かかった私です。
今回も渡部・小林先生をはじめとする多くの方々と触れ合うことで「新生児ケアセミナー・赤ちゃん発達応援セミナー」をしっかり学んで、「もっとケアしてあげないといけないな」と思いました。

【大変なことを乗り越えて、幸せと感謝】
退院までにストマ閉鎖術が成功し、いろいろやって来たせいか、医療介入は何一つなく、よく笑う子になり、ご飯も自分で食べられるようになり、ゆっくりですが会話もできるようになりました。
1つ年下の次女に難病が見つかり、手術を受けるなど大変でしたが、反面、ライバルのように2人は何でも同じようにやりたがるので、きょうだいが多いことも、たくさんの刺激があるので、発達が促されるのではと思います。
「どうして4人中 2人も…」と思ったことは何度もありましたが、それらを乗り越えて、子ども達4人の笑顔を見て過ごせることに幸せを感じ、子ども達を通して学んでいることが多いなと感謝の念が湧いてくる今日この頃です。

【恵まれた職場で】
今まで、総合病院勤務・新生児訪問・健診センター・小学校・放課後デイサービスと、いろんな職場で、いろんな働き方をしてきましたが、現在、骨盤ケアに理解のあるクリニックで働いています。
お陰で、障害のある子どもを含めて4人も子どもがいても常勤で雇用してもらっています。障がいのある子どもを育てる親が常勤として働けることは、本当に有難いことです。
いつまでこの状況が続けられるか、休日は子ども達全員の用事を済ませ、長女のケアもしながら、チャレンジしています。
仕事を続けられる間に、今の職場での骨盤ケア教室運営の完成をさせ、後輩に骨盤ケアの大切さを伝えていきたいと考えています。私が回旋異常のある産婦さんをケアしているのを見て「何をやっているの?」と興味を持った助産師はメンテ“力”upセミナーを受講。今後は一緒に骨盤ケア教室運営を計画していく予定です。
このクリニックに巡り合えたのも何かのご縁と思います。一度諦めた骨盤ケアを「もう一度やり直しなさい」ということだったのかもしれません。

【将来の夢】
4人出産して振り返って思うことは、「1人目以外は転勤を繰り返していたこともあり、ギリギリの状態での出産・育児だった。サポートが少なすぎた」と反省し、サポートの重要性を皆に伝えています。
今後は特別支援の先生方に“まるまる育児”を知ってもらいたいと思いますし、通院している病院の理学療法士の先生方や、勤務していた放課後デイ、利用している放課後デイにも“まるまる育児”の大切さを伝えていきたいと思っています。
私自身も時間が取れるときに新生児のケアを学び直したいと考えています。

お産は本当に何が起こるか分かりませんが、4人の子ども達を通して多くを学んできた私です。今後は、私にしかできないことをやっていきたく、メンタルケアに励み、心理学も勉強中です。早産しそうな方の緊急搬送の救急車には、たいてい私が一緒に乗って、心身のケアに励んでいます。

そんなときに、15年ぶりに渡部先生と再会し、骨盤ケア・新生児ケアの重要性を再確認したのです。
骨盤ケアを極めることは難しいと分かってはいますが、マイペースで学び続け、我が子の発育支援としても継続できたらいいなと思っています。