神奈川県の助産院勤務助産師 松浦麻喜恵さんのコラム
“生きているだけで丸もうけ”の私が伝えたいこと
【はじめに】
神奈川県川崎市の助産院に勤務している松浦麻喜恵です。訪問看護ステーションを併設する助産院で、育児不安や精神疾患を持つ妊婦・産後ママ、発育・発達フォローを要する新生児~乳児の訪問をしながら、助産院の夜勤に入りお産や産後ケアに携わっています。
私生活では、鍼灸師の夫と、まるまる育ちの6歳・3歳男子の母として奮闘しています。歳は重ねてますが、助産師としてはまだまだひよっこの2年目です。
【離島の保健師として】
東京の看護大学にて看護師・保健師免許を取得。最初に勤務したのは長崎県小値賀島という人口2,800人程度の離島でした。「人生の初めから終わりまで、あらゆる健康レベルの人と関わりたい」との想いから、たどり着いた職場でした。
「先輩保健師から学ぼう」と飛び込んだ職場にはもう1人の新卒保健師がいるだけで、保健師は新卒2人\(@@)/2人で「島の人達の健康を守らなければ」と、必死に保健活動で駆け回り、島の人達の優しさと温かさに助けられながら、人生の喜び・悲しみ・苦労・悩みを間近で見ながら支え、学び、成長させてもらった看護職人生の始まりでした。
【初めての妊娠・出産】
その後、2014年に結婚し東京に戻ってすぐに妊娠、なるべく自然に生みたいとの思いで、助産院で産むことに決めました。
大きなトラブルなく過ごし不調もなく(感じず?)過ごしていた私は、助産院で開催された骨盤ケア教室に参加しても「心地よいって何? 体が楽になるって?」という状態。骨盤ケアの効果を感じることなく過ごしてていましたが、転機が! 妊娠34週手前の健診で逆子になったのです。
「明日までに回ってないと助産院で産めないかもよ~」と言われ、骨盤ケア教室で教わった操体法や体操を一晩中して、ドキドキしながら翌日助産院へ行くと頭位になっていたのです(^O^) その日から、安産を目指して必死に骨盤ケアに励みました。
その後、助産院で開催していた“まるまる育児教室”に参加すると、そこで目の当たりにした光景に驚愕(@o@)保健師時代「性格よね~」なんて言葉で済ませていた、ぐずる、寝ない、泣いてばかりの赤ちゃんが、2時間ほどの教室中に穏やかに落ち着き寝ていく姿でした。
「ぜひ、わが子でもまるまる育児を試してみたい! 生まれたその日からおひなまき&首枕で子育てをしよう」と決心しました。
骨盤ケアに励んだ甲斐あってお産はとってもスムーズで…、と言いたい所でしたが、分娩所要時間は60時間(-“-;
骨盤ケアの本当の心地よさが分かるようになったのは、その3~4年後でしたから、当時の私のガチガチ・ガタガタの体から考えると、妥当な分娩経過だったんでしょうね。
きっと骨盤のゆがみが原因で、回旋異常を起こしていたのだと思います。しかし、そんな出産を経て「赤ちゃんってすごい! 出産ってすごい! 助産師って楽しそう!」と感動。「助産師になる事が私の生まれてきた意味だったんだ!」と、何かに取りつかれたように、今まで味わったことのないワクワクした感情が沸き起こってきました。
“まるまる育児”のお陰か、息子はとても穏やかで1日に10分も泣くことなく、手はかからず、どこに行ってもお利口にしていてくれるので、子連れでセミナーに行くこともしばしば。そうするうちに、出産直後に抱いた「助産師になりたい!」という夢はますます膨らみ、居ても立ってもいられなくなってしまいました。
【第2子妊娠中に助産学校に】
ダメ元で助産学校を受験、合格の知らせが来たのです\(^o^)/ ところが1週間後、究極の選択を迫られることに…。何と、約1年間妊活しても授からなかった2人目を妊娠していたのです。妊娠5ケ月で助産師学校に入学。予想外の展開ではありましたが、自分の身に起きていることを学ぶ日々は「毎日がマニアックな母親学級」のよう。楽しくてたまらない学生生活を送りました。
家族・先生・友人にはもちろん支えられましたが、妊娠・育児をしながらハードな学生生活を送れたのは「骨盤ケアと“まるまる育児”あってこそ」と感謝しながら、休学を挟み2年後、助産師になったのは30歳を過ぎていました。
【コロナ禍の病院勤務】
総合病院に就職し、第2の看護職人生が始まりました。希望通り婦人科・妊婦病棟に配属されたものの、時はコロナ禍。入院制限で患者が全くいなかったり、他病棟で発生したクラスターの影響を受けて整形外科患者であふれていたり…。
せっかく助産師になったのに助産師らしい仕事がほとんどできず、入職して半年以上経ってから産後チーム・分娩業務にかかわれるようになり、喜んだのもつかの間、人員が十分とはいえない環境で先輩達から求められるのは、「いかに効率よく業務をこなしていくか」「夜勤のスタッフに迷惑がかからないように仕事をするか」でした。
それまで、一人一人の対象者とゆっくりかかわっていた私には、そのような環境で自分が納得するケアは提供できず、「ここにいたらきっと私の成長は止まってしまう」と感じるようになりました。
「私に合った職場はないだろうか」と求めていたところ、現在勤務する助産院と出会いました。院長に助産師としての経験が未熟であることを話し、「もっと経験を積んでから来なさい」と言われるのを覚悟していたのに、「一緒に色々学びなさい。お産も産後ケアも、妊婦健診も入ったらいいよ」と、快く受け入れてもらえました。
現在、訪問看護では60~180分じっくりとその家族に関わり、産後ケアでもじっくりとケアができ、妊婦健診・分娩にも少しずつかかわらせてもらえるようになり、6年前に描いた夢の助産師像にようやく近づいてきたところです。
【基本整体セミナーに】
ケアする環境が変わったことで、骨盤ケア・“まるまる育児”をもう一度きちんと学び直したいと思い、まずは、3年前に取得したトコベルアドバイザーを更新しようと事務局に問い合わせたところ着用指導士になるか、基本整体受講をしてくださいとの返答!
「自信を持って骨盤ケア・“まるまる育児”を伝えられるようになりたいな」との想いだけで「基本整体受講しま~す」と、内容も良く分からないまま2021年10月からの基本整体を申し込みました。
わくわくした気持ちで初日を迎えたものの3~6年前に受けたセミナーの内容は忘れているだけでなく、内容も進化。浦島太郎状態で??の連続。しかも、テイクケアもいっぱい! 頭の中はパンク状態でした。
テイクケアの練習をしていく中で、自分の体の“使えなさ”、“感じられなさ”を実感。変な体と頭の状態に気が付き、「今はこれ以上学ぶのは無理かも…」と諦めかけた2日目、信子先生の施術を初めて受けることにしました。
【“生きているだけで丸もうけ”の体?!】
その時、「1歳半の時に肝芽腫という小児がんが分かり、グレープフルーツ大の腫瘍の摘出術を受けた」と話し、手術痕を見せると、「肝芽腫?! 芽がつくがんで生き伸びた人を私は見たことがないわ。あんた生きてるだけで丸もうけやで~。それに、こんな大きな手術のキズ痕がある人は、子宮が硬くて胎内死亡になってしまう人もいるんやで」と言われ、初めて自分がそんな体だったのだと思い知ることに。
無事に2人も助産院で出産でき、子ども達が元気で、自分の命があることが、当たり前だと思っていた全てのことが、そうでなかったんだと知り、生まれて初めて自分の体をねぎらうことができた気がします。
それと同時に、母から「あなたは泣かないし、おとなしくて動かなくて、手がかからない子だった」と言われていたことを思い出しました。腫瘍が入った大きなお腹が邪魔で寝返りも、ハイハイもほとんどできなかった上に、術後も外で走り回ることができず、骨格や身体能力の成長・発達が不十分なまま大人になり、今の体になった…。と、繋がりました。
【こんな体の私がママ達に伝えたいこと】
こんな話をすると、驚かれたり、過剰に心配されたりするのが嫌で、“隠しておきたい過去”としてしまい込んでいました。しかし、看護職となって様々な方の人生に関わらせていただく中で、大なり小なり何らかの病気や障害を、私と同じように乗り越えながら生きている人が、たくさんいることを知りました。
そして、そんな中でも幸せそうに生きている人と、苦しそうに引きずる人とがいることに気が付きました。他人から見てどんなに大変な人生でも、自分自身を受け入れられている人は幸せそうです。逆に人生の歩みを受け入れられていない人は、「もっともっと頑張らないと幸せになれない!」と言わんばかりに子育ても、仕事も、家庭の事も頑張りすぎてしまっている方が多いような気がしています。
そんなママ達に、まずは「あなたも生きているだけで100点満点の存在なんだよ。だから自分を大切にしてほしい。子育てしながらもママ自身が心地よさを味わえる体になってほしい」と話し、その方法として骨盤ケアを伝えたい。
そして、「赤ちゃんは100点満点で生まれてくる存在だから、持っている力をしっかり発揮できるようにかかわってあげてほしい」と話し、その方法として“まるまる育児”を、少しずつ伝えていけたらと思っています。