東銀座のマミーサロン代表 是枝貴子先生のコラム
亡き母を偲び名付けたサロンで助産師ならではのケアを突き詰めたい。
【産婦を癒しつつ、自分を癒していた日々】
助産師学校卒業後、鹿児島の産院に就職しました。その産院では、当時、分娩が月120件ほどあり、その地域では比較的分娩件数の多い方の産院でした。
そのためか、産院の都合に合わせた、産院主導の分娩が行われ、日勤帯で分娩を終えることが理想という考え方のもと、押して引いて無理やり産ませるような分娩が多くを占めていました。
自分が思い描く出産とは随分とかけ離れていたため、戸惑いながらも必死に産院のやり方に慣れようとしたものの、常にジレンマを抱えていました。
分娩介助につく側でさえも、この様な思いだったので、産婦さんはなおのこと理想的な出産とは程遠く、出産をネガティブに捉える方が多かったように思います。
【アロマトリートメントを通じて】
ご縁あって分娩介助で携わった産婦さんだけでも、「自分自身の手で癒して差し上げたい。分娩の振り返りをして少しでも心を癒してあげたい」と思って始めたのがアロマトリートメントでした。
今でこそアロマはメジャーですが、当時はまだ浸透しておらず、とても珍しがられました。
助産師2年目では、一通りのアロマ関連の資格を取得し、アロマトリートメントを通じて、人の体に触れることに慣れていったように思います。
「少しでも出産の思い出をポジティブなものにしてあげたい」との想いから、勤務時間外に産婦さんにお声掛けをし、アロマトリートメントをしながら、分娩の振り返りをし、出産での頑張りを労いました。
今振り返ると、産婦さんのためと思ってしていたことは、実は自分自身の傷を癒すためだったのだと思います。
【プライベートでは…】
プライベートでは、両親は離婚していて、母はアルコールと薬物依存症で入退院を繰り返している状態が続いていたため、一人っ子の私にすべてがのしかかっている状態でした。
この母の問題は、23歳の私には非常に荷が重く、心身のバランスを保つのが精いっぱい…。鬱と拒食に陥り入院もしました。まさに母子共倒れ状態。
最終的に私は母の成年後見人となり、親子の立場逆転という形となっていきました。
一方で、自分の心のバランスを保つために、仕事にやりがいを求めていました。
まだまだひよっこで、駆け出しの助産師だった私には、病院の慣例に抗うだけの力もなく、別の場所で身に着けた知識やスキルを自信にして、仕事にやりがいを求めていたように思います。
【骨盤ケアとの出会い】
そんな中、山川不二子先生の「おっぱいの1dayセミナー」を受講するために上京した際、出会ったのが“骨盤ケア”でした。
その1コマを担当していたゲスト講師が渡部信子先生で、渡部先生の話を聞いた時の衝撃は今でも忘れられません。
アロマを極めようとしていた私だったのに、「アロマは助産師でなくてもできる。もっと助産師ならではのケアを突き詰めたい!」との想いに駆られたのが、弱冠24歳の時でした。
これを機に、(旧)母子整体研究会(以下、母整研)の門をたたき、骨盤ケアの学びを深めていきました。
母整研の研修は、「全講座をそれぞれ5回以上受けた!」と思うくらいハマッてしまったのです。
時を同じくして、幸運にも、健美サロン渡部高輪分室での研修生募集の話が舞い込んできました。
「渡部先生の近くで学ぶことができるなんて幸運すぎる! これを逃すと二度とチャンスは巡って来ない!」と思ったと同時に、自分の進むべき道がパッと照らされたように感じました。
すぐに上京を決意し、勤務先の産院を退職。それは、その後の人生を決める一大決断でした。
健美サロンで研修生として月曜日から土曜日、週6日の勤務をしながら、都内の病院の産婦人科病棟で夜勤のパートを月8-10回こなしていました。
高輪サロンでは、渡部先生の助産師としての技と、カイロプラクティックの華麗な技を間近で見られ、セミナーアシスタントとして、全国行脚にも付き添わせていただきました。
かなりハードな日々でしたが、とても刺激的で楽しく充実した2年間を過ごすことができました。
【母の死を受け開業】
健美サロン渡部での研修期間中に、母の訃報が入りました。
20歳で私を出産し育ててくれた母、産婦人科医院の看護師長だった母は、私の憧れでした。
計り知れないほどの深い悲しみと喪失感に襲われながらも、重責から解放された安堵感の方がそれを上回っていました。
母の死を受けて、鹿児島に帰らねばならない理由もなくなったこともあり、その後も健美サロン渡部で修行をさせていただきながら、出張開業することに決めました。
亡き母を偲び、屋号を「マミーサロン」と名付けてスタートした開業当初は、高輪サロンでの研修、病院での夜勤、出張施術という3足のわらじを履いて不眠不休の日々…。
今思えば、身体的極限に追い込むことによって、悲しみから逃れようとしていたのかもしれません。
そんな生活の中で心の傷は少しずつ癒され、同時に、みるみるみるうちに利用者が増え、とても対応しきれない状態になってしまいました。
【サロン開設】
出張開業からほどなくして、健美サロン渡部での研修に終止符を打ち、2006年11月に「マミーサロン」を始動。2008年4月に法人化し、銀座にも近い築地に最初のサロンを構えました。
施術ができる部屋さえあれば、それでいいとは言えません。自分の体に責任を持って、健康管理できる妊婦になってもらわないといけませんから、妊婦さんへのセルフケア指導がとても重要です。
そのため、講座を通じて妊婦さんにセルフケアの大切さを伝えようと考え、講座専用のスタジオも開設しました。
そうこうしているうちに利用者もスタッフも増え、東銀座にサロンを移転し、現在に至っています。
私自身も多様化する妊婦さんのニーズに応えるため、ケアの幅を広げるべく、鍼灸学校に3年間通い、鍼灸師の資格を取得。
さらに、歩行を分析し足に合った正しい靴のフィッティングや、インソールの作製を行うフットケアトレーナーや、健康増進のためのトレーニングを指導するパーソナルトレーナーなどの資格も取得しました。
骨盤ケアから出発したマミーサロンは、現在「産前産後のママとベビーのためのトータルヘルスケアサロン」へと発展し、様々なサービスを提供しています。
山あり谷ありで、決して平たんな道のりではありませんでしたが、私の活動を支えてくれる仲間にも恵まれ、夫と2人の子どもにも恵まれ、開業から15周年を迎えることができました。
【ピンチはチャンス! コロナ禍での経営】
昨年来のコロナ禍により、来室者数が激減し、対面型の講座も全面中止せざるを得なくなりました。
当然、収益も大幅に減り、開業以来のピンチを迎え、サロン閉鎖も一瞬頭をよぎりました。
しかしながら、「マミーサロンは不要不急ではない場所だから」、「マミサロは妊婦健診と同じくらい大事だから」、「マミサロでの施術が楽しみだから、ここに来る時間だけは死守する」などという、利用者様の励ましに後押しされ、「ピンチはチャンス!」と意識を切り替えました。
コロナ禍でも利用者様のニーズに応えられるサービスとして、対面型講座を全面的にオンライン化。慣れない作業の連続、手探り状態でのスタートでしたが、オンライン化により、地方にお住まいの妊婦さんにも、サービスを届けられるようになりました。
また、SNSアプリケーションを利用して、リアルタイムでの情報発信などを行うなど、今はコロナ禍前よりも充実したサービスの提供ができるようになりました。
【これから…】
ここまで無我夢中で何とかやって来ましたが、これからは、妊産婦を取り巻く環境はますます変化し、情報は増え続け、ニーズも多様化してくることでしょう。
現状に甘んじることなく、更に進歩し続けるべく、常にアンテナを張り、自己研鑽に励まなければなりません。
マミーサロンを開業した年に誕生した赤ちゃんは、この春、高校生になりました。
今の私の目標は、彼女達が妊婦になり、マミーサロンに戻って来てくれるまでケアを続けることです。
そして、さらに、彼女達の孫の顔も見られたら、どんなに素敵だろうなと夢見ながら、歩み続けたいと思っています。