栃木市の整体院開業助産師 小林清美先生のコラム
整体を学んで得た一番の財産は、総合的に診る視点
【はじめに】
栃木市でママと赤ちゃんの整体「すこやかママのいえ」を開業している助産師・ 整体師の小林清美です。
助産院でも、出張専門開業助産師としてでもなく、整体院として開業している理由は、とってもシンプル。「手続きが簡単!」だからです。
名称や助産師資格を所持しているためか、助産院と間違えてお問い合わせをいただくことがあり、申し訳ない気持ちになったりもします。
【3年間歩けなかった小学生時代】
小学2年生の時、急に左足で立てなくなり、整形外科を受診したところペルテス病と診断されました。「特に治療法はない」と言われ、股関節の保存療法のためにガニ股で固定する装具を着け続けること3年間。
学校の送迎は親に車でしてもらい、校内は車椅子で移動。階段は両手とお尻で昇降し、車椅子は先生や友達に運んでもらっていました。
体育の時間は見学すらさせてもらえず、私一人だけ別課題を与えられ、職員室でひっそりとこなしていました。
【助産師となり、整体と出会って】
装具から解放された後、「私のような人を助けたい!」と、看護師を目指しましたが、看護学生の時に誕生の現場に立ち会えたら素敵だなと思い、さらに進学して助産師資格を取ることを決めました。
そんな私が整体を学ぶきっかけになったのは、夜勤とオンコールでバリバリ分娩介助をしていた助産師3年目。(旧)母子整体研究会のセミナーの広告が勤務先に届き、その中の「回旋異常がなおる」との文言に、目が釘付けになったのです。
当時の私の悩みは高確率で当たる回旋異常による緊急帝王切開。「これをどうしたら減らせるのか?」だったので、「これほどぴったりのセミナーはない!」と受講したところ、骨・筋肉の名がゾロゾロ…(*_*;
看護学生時代に大の苦手だった解剖学を、セミナー受講後に必死に学び直している自分が信じられませんでした。
セミナーで学んだことをまずはお産の現場で試してみると
◆24時間全く分娩進行しなかった経産婦さんが、骨盤ケア後40分で分娩!
◆おっぱいの緊満がしれっ~と解除!
魔法のような現実に次々と遭遇することに!
【ワースト1の骨盤?!】
ペルテス病で3年間装具を装着し終えた後は、開排制限が顕著に残り、あぐらをかこうとすると患側である左股関節は全く開かず、開排はほぼ0度。健側の右股関節は普通に開いたため、両側開かないよりも、むしろアンバランスでした。
でも、これ以外は不調も痛みも何もなく、仕事もバリバリしていたので、自分の体が悪いという自覚は全くありませんでした。
意気揚々と学びに行った先で予想外だったのは、私の座り姿を見た渡部信子先生から、「今まで診てきた中でワースト1の骨盤やで~」と言われて、かなりショック_(._.)_
「それじゃぁ…、経腟分娩はできないということですか?」と尋ねると、「お産の心配はせんでええよ。そもそも妊娠しないし」と追い打ち(;-_-)
当時新婚2か月だった私は、「まずは自分を何とかせねば」と、けっこうシビアな状況に陥ったわけです。
「どうしたらいいんでしょうか?」との私の問いに、信子先生は「もっと勉強することやな~」と。
素直というか馬鹿正直というか、先生の勧めのままに、トコ・カイロプラクティック学院のセミナー(オステオパシー・カイロプラクティック・交感整体)を次々と必死に学び続けたところ、開排制限が徐々に改善し、他の受講生と変わらない程度にあぐらが組めるようになりました。
そして、気付いたら産科の部分的なケアではなく、整体師として、老若男女全ての人々を施術できるまでになっていたのです。
【予言を覆しながら、不妊治療・妊娠・分娩・育児】
残念なことに、「妊娠しない」という信子先生の予言は見事的中。結婚後2年たっても妊娠せず、結局、高度不妊治療である顕微授精まで受けることとなり、お陰さまで、自分の体がいかに悪いのかを、徐々に自覚するようになりました(^^;
初めての妊娠が確認できたのは結婚後5年。妊娠したらしたで、中期に妊娠糖尿病の診断を受け、個人クリニックから大学病院に転院せざるを得なくなり…(;-_-)
陣痛発来しても微弱陣痛で促進剤を使用することになり、第1回旋が不十分で骨盤出口部でひっかかり、子宮底部のお腹をガンガン押されたところ、会陰切開がさらに裂け、生まれた子どもは低血糖+黄疸で、散々でした。
自らの不妊治療・妊娠・分娩・育児で身をもって知ったことは
◆骨盤をはじめ全身の骨格がゆがんでいると、子宮・卵巣の位置・形・機能がおかしなことになり、子宮もゆがんで妊娠しにくくなること。
◆運よく妊娠しても、よくない母体だとトラブルが多いこと。
◆その母体で育った赤ちゃんにどんなことが起こるのか。
その一方、体を整えるとどれほど楽になるかも、自ら体験しました。第1子を出産してから4年後、2人目の子どもにも恵まれました。
妊娠中も出産時も、セミナーで一緒に学んだ先輩方に寄り添ってもらい、施術もしてもらったお陰で、途中「帝王切開になるかも?」との不安も乗り越え、無事に経腟分娩できました。
【自らの体験を新米ママ達に】
今でも覚えていますが、第1子の産後、メールで信子先生に「下から産めました!」と報告した時の返信の一行目は「信じられない」でした(^0^)
同時に、「元々体が悪くても努力次第で変えられるという希望になる」と言ってもらえ、とても嬉しく、感無量でした。
とはいえ、いくら妊娠中に整えても、なんせ元々ワースト1の骨盤を持つ母体で10か月育ってしまった我が子は、いかにもそれっぽくゆがんでいました。
当時、赤ちゃんの施術はほとんどできなかった私でしたが、我が子から育児・発達・施術…のあらゆることを学びました。
毎日毎日我が子の体を触って、こうしたらこう変わるとか、月齢と発達の段階など、わからなければ調べて、それでもわからなければ先輩に質問して…、の日々。
今、新米ママ達にあれこれ指導できるのも、あの日々があったからだと胸を張って言えます。
【私の“野望”】
なし崩し的に開業して早14年目になりますが、地域の助産師さんから、市の相談事業を訪れるママに、こっそり当院を紹介していただくことも増えました。
面識もないのにご紹介くださるなんて、「私のやってきたことを理解してくださっているのだな~」「地道にやってきて良かった」と、嬉しくなります。
でも、まだまだです。私の“野望”は問題が起きてから悩むのではなく、問題が起きないように事前に予防できる環境を作ることです。
「どのタイミングなら、みんな聞く耳を持ってくれるのだろう?」と、試行錯誤の連続。人生を考えるなら中高生の性教育の場で知っておいてほしいことなのに、いかんせん、出産時期が既にわかっている妊娠中ですら、聞く耳を持ってもらいにくいのが現状です。
妊娠後期に沐浴教室を受講しても、産後にはキレイに忘れてしまうくらいなのに、進学先や就職先さえ決まっていない時期に、母親になるなんて不確定な未来を想像できることの方が稀なわけで…。
結局「地道な草の根活動で大切な人に、じわじわ伝えてもらうのが一番確実なのかもしれない」と、思うこともしばしばです。
【自分で考え、選択・決断できる力を】
私は、育児書やマニュアル通りに何かをするのではなく、自分や赤ちゃんの体にとってベストな方法を探していくことが、育児の基本であると思っています。
抱っこ一つとってみても、体格の違う人の抱っこを見よう見まねでやってみても、しっくりしないことは多々あります。
出産した施設で教わったやり方を、ポイントを押さえることなく、見た目だけマネしても上手くはいきません。赤ちゃんが大きくなったり、ママの手首が痛くなったり…、状況が少し変わると従来のやり方ができなくなってしまいます。
でも、ポイントさえ押さえていれば、試行錯誤、工夫をしてその状況に合った抱っこの仕方を見つけ出すことができるのです。
私はその探し方をいつもお伝えしています。「今はこの抱き方がちょうどいいかもしれない、でも、明日はそうじゃないかもしれない」「その時に何を大事にしたら良いのかがわかっていれば、パニックになることなく乗り越えられる」。
これらは全ての事柄に通じると思います。
「保健師さんが…、小児科医がこう言った」「ネットではこう書いてあった」と、右往左往するのではなく、それらの情報を材料に、自分がどう考え、どう選択していくのかが重要!
育児は常に選択の連続!「母乳? 粉乳?」「紙おむつ? 布おむつ?」、「授乳は今? もう少し後に?」「離乳食をいつ始める?」「保育園? 幼稚園?」…。
そんな一つ一つを自分で考えて、選択し、結論を出せる力を培うことが、母子の幸せにつながると信じています。
【おわりに】
振り返れば、自らの努力と先輩方の援助のお陰で、実践しながら学びながら、信子先生の予言を次々と覆し続けた十数年。分娩介助に明け暮れていた頃は、今のような仕事をしている私を、全く想像できませんでした。
骨ケア・“まるまる育児”・整体を学んだことで、体を局所的でなく総合的に診られるようになったことが、助産師人生で一番の財産だと思うと同時に、私を育ててくれた全ての人々への感謝の念が沸き起こってきます。
全てのママと赤ちゃんが笑顔で過ごすためのお手伝いができるよう、今後も学びながら成長し続けたい。それが私の生きる道です。