岐阜市の開業助産師 東山志保先生のコラム
3足のわらじで、働き甲斐と刺激にあふれる日々
【体育の教育指定小学校で】
私は岐阜市に住んでいる助産師の東山志保です。
岐阜県は南北に広く北と南では気候も随分差があります。私が生まれ育ったのは、岐阜県北部に位置する高山市で、通っていた小学校の裏には学校所有の山がありました。
小学校時代は、月水金曜日はその山登り、火木土曜日は2kmの持久走、という朝運動の時間があり、私は山登りが好きでした。小学校4年生の時に、その小学校が体育の教育指定校となり、夏場は4kmの道のりを歩いて通学することになりました。
年に何度か足裏への体重のかかり方を計測された思い出があり、小学6年生の時の担任の先生が、私の身体成長記録を研究発表して、かなり優秀な賞を受賞されたそうです。
【なるべくして助産師に】
助産師を目指したきっかけは弟の存在です。小学校1年生の夏休みの旅行中、母親に「弟が欲しい」と懇願しました。初霜が降りる頃、母がトマトジュースを飲んでは吐く場面を目の辺りにして、子どもながらに母が死んでしまうのではないかと怯えましたが、ここで母の妊娠を知りました。
そして翌年、弟が生まれまれた時点で、すでに私は“小さいお母さん”となりました。
母の妊娠経過をはじめ、その後の母と弟の変化や成長を見たこと、数名のタイプの違う助産婦の働きぶりを見たことで、なるべくして助産師になりました。
【学生時代】
看護学校は岐阜県立衛生専門学校で学びました。急性期の実習で素敵な看護婦さんの後姿を見て「外科で働くのもいいな…」と心が揺らぐこともありましたが、その後の母性実習で、目指すものがハッキリとしてきました。
悪態をついてワンワン泣く回旋異常の産婦さんを、母親の様になだめながら分娩に導いた助産婦の姿と、鉗子を使って教科書で見るようなスムーズな軌道で分娩をサポートする医師の姿に、「やっぱり、私が目指すべきものはここだった」と気づきました。
「助産学校はどこにしよう」と考えたとき、その時代、周産期医療や不妊治療が全国的にも先進していたのは富山県だったため、富山県立総合衛生学院を選択。
無事に合格し、ローリスクからハイリスク分娩まで学ぶことができました。在学中、副担任の先生が妊娠・出産。臨時で副担任になった先生の助産院開業という、女性として助産婦としての、それぞれの大切な場面を見ることができました。
【就職・妊娠・出産・育児】
卒業後はやはり岐阜県内で働きたいと思い、岐阜赤十字病院に就職。ここでは産婦人科立ち上げから経験するという、稀有な機会に恵まれました。
その後、27歳で長女を出産。今思えば私の中には“骨盤ケア”なんてワードは全くないままの妊娠・出産でした。妊娠30週頃から軽い恥骨部痛が出現し、どんどんひどくなり、分娩直前はしばらくハイハイをしないと立ち上がれないほどでした。
今思えば「動き始めのハイハイは、良かったんだなぁ」と冷静に振り返られますが、「子どもの頃にあんなに足腰を鍛えた私なのに、どうして?」と訳が分からず、 お先真っ暗で、情けなくて…。
分娩所要時間は16時間半で、経腟分娩。しかし、陣痛開始から15時間半は5分間歇、発作30-40秒、児頭はかなり下降(St.+2)。なのに、低在横定位で全く進まず、ふてくされて側臥位になって1時間。恐ろしいような娘の身震いとともに息みが出現し、あっという間に生まれました。
その後、31歳で次女を出産。妊娠中期に、長女の保育所の参観日で割座(ぺたんこ座り)をしていたら、恥骨部の痛みプラス腰が抜けたようになって動けなくなってしまったのです。
ここでもやはり、訳も分からずハイハイでその場を凌ぎ、なんとか歩けるようになって帰宅した後、初めて助産師が行う“骨盤ケア”に出会ったのです。
【骨盤ケアとの出会い】
分娩をお願いしていた“ゆりかご助産院”の赤塚庸子先生に、この状況を報告し、自宅に来てもらいました。
すると先生は、ちょちょっと施術をし、地味~な体操(操体法)を指導され…、なんだか怪しげな初めてのことを体験。私の頭の中に疑惑の雲が広がってきました。
そこに現れたのが見たことのない細く折り畳んださらし…。それを、ちょいちょいと腰回りに巻いてもらうと…、あ~ら不思議「何? このシャキッと感!」。
さらしを使ってのお尻からお腹のサポート法は、助産学生時代に開業助産婦の先生に習っていて、自分でも巻けましたが、骨盤の支え方にカルチャーショックを受けました。
赤塚先生にトコちゃんベルトのことを聞き、「次の健診までに学ぶ、調べる、使ってみる」との課題を与えられ、そのとき初めて、渡部先生の存在を知りました。
知れば知るほどショックや後悔…。「でも、産後は絶対にこの先生に会いに行く!」と腹をくくりました。
次女のお産はもちろんスムーズ。しかし産後はやはり骨盤はグラグラ。「でも大丈夫、私にはさらしもトコちゃんベルトもある!」と、金棒を持って鬼に向かって突き進んで行けるくらいの勇気がありました。
そして初めて実践した“おひなまき”。可愛い。可愛すぎる。我が子だから可愛いのか? 違います。“おひなまき”巻きにすると1.5倍可愛く見えます。メッシュ素材の布で包むだけで、こんなに可愛く楽に過ごせるのだと実体験できました。
産後1年間存分に育児を楽しんだ後、ようやく名古屋で開かれた(旧)母子整体研究会主催の骨盤ケア入門セミナーで渡部先生に会うことができました。言うまでもなく私はキラキラして、先生の一語一句漏らさないように聞いて、メモして、実践してみました。
2年ほど(旧)母子整体研究会主催の基礎セミナーに通い、学びに没頭しました。
その後は、トコ企画のセミナーへ参加していましたが、残念ながらその後は義母の難病発覚などもあり、セミナー通いは中断。しかし、学んだことを使いながら私ができる範囲で骨盤ケアを提供し続けています。
【転院・退職・開業】
せっかく立ち上げからかかわった日赤病院の産科なのに、残念ながら閉鎖となってしまい、13年間働いた後、退職。国立病院機構長良医療センターに移りました。ここでは、NHK-TVの“プロフェッショナル”で紹介されたくらい有名な川鰭市郎先生の下で、胎児治療も含めた超ハイリスク分娩を8年間学びました。
しかし、ここでも産科の医師が大幅に移動となり、産科は縮小。「人生で2度目の産科閉鎖に立ち会うなんて、つらすぎる。耐えられない」と悩んだ末、退職の道を選びました。
退職後、「自分に何ができるのか?」と数か月悩み、川鰭先生に何度も相談し、もう一度自分がやりたいこと、できることが何かを考え、開業届を提出しました。
“助産院芽出(じょさんいんめでる)”を開き、その傍ら、岐阜県内にある操レディスホスピタルと、ゆりかご助産院でパートタイマーとして働き始めました。
そんな“3足のわらじ”を履いて働きながら、主婦としても忙しい日々を送っています。
【今、これから】
家族は4人。なぜか我が家の長男坊の様になってしまった甘ったれの夫、おっとりに見えるのに動じない腹の据わった長女、活発なのに優しい次女がいます。
ここ数年、家庭の事情もありセミナー受講はできていませんが、私の中には渡部先生から学んだ基礎はあります。セミナー受講を再開できるまでは、これまで身に着けた基礎を大切にし、自分なりに試行錯誤しながら、変わりゆく現代人の体と向き合い続けたいと思っています。
ありがたいことに、操レディスホスピタルで、昨年末から産後入院中のサービスとしての骨盤ケアを、今年3月から同病院で「骨盤ケア・赤ちゃん発達ケア外来」を担当させてもらえるようになり、働き甲斐と刺激にあふれる日々を楽しんでいます。
現在、助産院芽出では週2回の活動日を設けています。訪問ケアで骨盤ケアはもちろん、赤ちゃんの正常な発達につながるような“まるまる育児”をアドバイスしています。
また、ゆりかご助産院では週1回当直をして、産後の母子ケアはもちろん、時には分娩介助もさせてもらっています。
私は、これまでローリスク分娩から超ハイリスク分娩まで関わる中で、助産師としてその場その場で必要なケアが提供できる喜びを感じながら働けています。私1人では多くの方は助けられなくても、目の前の1人を大切にし、笑顔にできるように今後も学び続けながら、必要とされる場面ですぐに手を差し伸べられる私でありたいと思っています。
私をここまで成長させてくれたすべての方に感謝しつつ、これからも頑張ります。