東京都の助産師 髙宮真衣奈さんのコラム
柔道二段、低出生体重児を産んだ私の夢
【はじめに】
6月末に東京都練馬区の住民になったばかりの助産師、髙宮真衣奈です。
夫の転勤に伴っての引っ越しで、同時に、5年勤務した大学病院を退職しました。
現在は第2子を授かり、12月に出産を控えているところです。
骨盤ケアにかかわり始めてまだ経験の浅い私ですが、「何事も経験!」と思い、このコラムを書かせてもらうことにしました。
【助産師になるまで】
幼い頃から都内で育った私は、小学4年のときに兄が通う少年柔道クラブを見学に行き、それから毎週見学しているうちに、私も習い始めました。
水泳や高飛び込み、マラソン、吹奏楽部と、様々なことをしてきましたが、高校時代から大学3年の夏までは柔道一筋!
12年間のうち、男子の中に女子1人の期間が長かったのですが、とにかく、強くなりたい一心で励み続け、二段まで取りました。
母子家庭で育ち、建築会社で勤務をしている母の背中を見て育った私は、高校3年になる直前まで建築士を目指していました。
ところがある日、母が救急車で病院へ運ばれるという事件があり、そこで関わった救急救命士の姿に憧れてしまったのです。
また当時のTVドラマ『コードブルー』にも刺激され、「救急救命に関わる現場でかっこよく働く女性になりたい!」と思い進路を変更しました。
看護学生になり、授業や実習を経験する中で周産期という分野に出会い、生命の誕生、新たな家族の出発地点であるお産の現場に魅力を感じ、大学4年で助産専攻科へ進みました。
【憧れの先輩助産師Iさん】
大学卒業とともに大学の系列病院である、都内の周産期センターに就職したものの、1つのことを理解するのに人一倍時間がかかる私は、先輩方に多大な迷惑をかけてばかり…。
16時の夜勤開始とともに、先輩看護師と行動調整をし始め、OKをもらい行動し始めるのが23時なんてことも(*_*;
そんな時に出会ったのが、1人目の産休明けで戻って来た先輩助産師Iさんでした。
当時、小さい子を持つスタッフはIさんだけで、勤務開始直前に笑顔で「保育園預けてきた!」と元気に病棟に到着したかと思うと、きりっと切り替え、助産師として働き始める。
素晴らしい業務をされ、時間までにやることを終わらせ、「お迎え行ってくる!」と颯爽と退勤。
子育ても仕事もテキパキこなすIさんの姿に、私はすっかり魅了されてしまったのです。
またIさんのお産介助や新生児とのかかわりなどは、どれも他の先輩方とは少し違っている気がしました。
妊産婦さん達からも「Iさん今日いますか? Iさんに聞きたいことがあるんですが」と聞かれることが、度々ありました。
経験も知識もない私は、Iさんのしているケアの意味が全然分からなかったのですが、「いつかIさんのように明るく、知識が豊富で、妊産婦さん達からも後輩からも、声がかけやすい助産師になりたい」と思うようになりました。
【まるまる育児との出会い】
社会人3年目で結婚とともに、夫の転勤で栃木県那須塩原に引っ越し、夜勤専従として新幹線で東京まで通勤しているうちに、第1子を授かりました。
妊娠初期から健診の度に、「この子小さめだね。まぁママが小さいからだね」と医師からは言われていました。
「えっ、そんなものなの?」と思いつつ、つわりで苦しんでいたのですが、Iさんは第2子の産休中。なかなか相談できずにいました。
そこで以前、Iさんから「新生児ケアセミナーを受けてみたら」と声をかけてもらったことを思い出し、申し込みをしました。
社会人3年目が終わる頃、妊娠7ヶ月に入る手前で退職し、新生児ケアセミナーを受講したところ、スリングに包まれ気持ちよさそうな赤ちゃんを連れたIさんに再会したのです。
小林いづみ先生のセミナーでは、驚くことばかり。
恥ずかしながら1番衝撃を受けたことは「授乳後の排気(ゲップ)って背中叩かなくていいの!?」でした。
「今まで出生後のケアから授乳指導まで、赤ちゃんを虐待してきてたんだなぁ」と深く反省しました。
次の日に赤ちゃん発達応援セミナーがあると知り、その場で予約し、次の日も受講しました。
それから、出産準備物品を返品したり、買い足したりと、用意し直しました。
整形外科医の夫からは「本当に大丈夫なの?」と何度も言われましたが、いづみ先生が話されていた「スリングや“おひなまき”で先天性股関節脱臼になった人はいない。疑うならその文献を持って来て!」と言いながら、“まるまる育児”の練習を家で続けていました。
【骨盤ケアとの出会い】
受講後2ヶ月、38週6日で、2,306gの女児を、分娩所要時間24時間半で出産。
それでも、赤ちゃんは生後2日からマイピローと“おひなまき”を始めたおかげか、母乳をよく飲み、よく寝、黄疸治療の必要もなく無事退院できました。
妊娠後期から産後、痛かった恥骨は産後まもなく治まったものの、腰痛がつらくて、妊娠中に予約していたメンテ“力”upセミナーを、生後2ヶ月の長女を連れて受講しました。
「もっと早く聞いておけばよかった」と後悔することばかりで、妊娠中に着けていたトコちゃんベルトⅡはキツすぎたようで、折ジワが(>_<。)
新生児ケアセミナーで“ダブル巻”を教わって、実践していたものの、恥骨が痛む私の体には、後ろから前に巻くトコちゃんベルトⅠの方が、断然気持ちがいいことなど、自身の体で感じることができました。
そこから骨盤について興味が強くなりました。
長女が1歳になる頃、夫の転勤で埼玉へ引越し、別の大学病院に再就職したのを機に、トコ・カイロプラクティック学院セミナー通いが始まりました。
トコちゃんベルトアドバイザーを取得し、すぐに、総合ベーシック・総合カイロプラクティックと、毎月2日間、1年間、高輪サロンに通い続けました。
この2つのセミナーにIさんが復習受講に来られていたことは、私にとってとても心強く、たくさんのアドバイスを頂きながら、改めて「Iさんのようになりたい!」と思い、最後までしがみついて行くことができました。
セミナー中に渡部信子先生に体を診てもらうと、「背負い投が得意だったんやろ?」と! 「何でわかるんだろう?!」と、ビックリ!
大殿筋は他の人よりしっかりしていて、「羨ましい~っ」と言われるものの、得意の背負投げを続けるうちに、左右の筋肉バランスが崩れ、腰椎~骨盤がゆがんでしまっていたのです。
しかも、外側の筋肉ばかりが強く、内側の筋肉は弱いことなど、自身の体をより深く理解することができました。
【低出生体重児だった娘のその後】
セミナーを受け進む中で、娘は正期産で生まれたのに低出生体重児で、しかも、分娩所要時間が長かった理由が、私の体のゆがみにあったことも納得できました。
娘は麦・卵・乳製品のアレルギーがあり、アナフィラキシーまで起こしたため、1歳4ヵ月頃から、乳製品克服の負荷試験を受け始めていました。
乳成分0.01~0.03㏄分含まれる食パンのかけから食べることから始め、ちょっとずつ乳成分の摂取を増やすという試験・治療です。
さらには、2歳になる少し前、感染経路不明の眼窩蜂窩織炎で1週間入院。
セミナー中そんなことを話していたら、「頸椎~後頭骨のゆがみのせいで、免疫力が低下しているんでは? 直さなアカンで~」と、信子先生に言われ、ショック。
信子先生の施術を初めて受けたのは2歳0カ月。
その後、2歳2カ月から牛乳0.1㏄を飲む試験を受けられるようになり、順調に増量でき、2歳11カ月の今は、35ccまで飲めるようになりました。
麦・卵のアレルギーも起こさなくなり、感染症にも罹らず、元気に歌って踊る娘に変身しました。
頸椎~後頭骨のゆがみが及ぼす影響の大きさに、ただただ驚かされます。
【第2子妊娠】
第2子の妊娠を望んでからも、なかなかできなかったのに、総合カイロプラクティックセミナーを修了する頃から、「ゆがみ、良くなってきたなぁ」と信子先生に言っていただけるようになりました。
自分でも体が楽になったと感じるようになり、毎日骨盤ケアを続ける中で、第2子を授かったのです。
またもや夫の転勤とともに都内に引っ越し、片道1時間半の車通勤をしていたところ、妊娠15週でお腹の痛みを感じ、自宅安静の診断書が出され、退職しました。
夜中3時まで荷造りしていたり、妊娠できたことに安心し、骨盤ケアも「時間がない」を言い訳にしてサボってしまったり…。
反省しつつ、毎日ケアすることの大切さを身にしみて実感しました。
現在は自宅で操体法・骨盤輪支持・“おとなまき”をし、1年近く前から1ヶ月に1回、娘と共に信子先生の施術を受けながら、出産に向け体を整えています。
【将来の夢】
第2子出産後、早ければ来年の4月に出張専門で開業届けを出して、ゆっくりと歩み始めたいと考え、只今準備中です。
そして将来、整形外科医の夫が開業した施設の中に、保健指導専門の助産院のスペースを作り、2人の子を育てながら、骨盤ケアやまるまる育児を広め、サポートできる助産師になっていきたい。それが私の夢です。