放課後等デイサービスで働く安藤舞季子さんのコラム
ヒーラーの手で“ボディケアスタジオ”を開くのが夢
【はじめに】
皆さま、はじめまして。神奈川県横浜市に住む安藤舞季子です。
社会人としてのキャリアは助産師としてスタートしましたが、その後、紆余曲折、医療以外の仕事も数々経験しました。
今は、重症心身障がい児・発達障がいのある子ども達を対象とする“放課後等デイサービス”で、パートタイム看護師として働いています。
【助産師になるまで】
生まれ育ったのは横浜市の北部の田んぼや畑が広がる緑豊かな町で、近所の友だちと思いっきり外遊びを楽しんでいました。
小学生のときには水泳・サッカー・野球、中学高校ではバドミントンと、スポーツ大好きな少女時代を過ごしました。
テレビのモータースポーツ観戦が好きで、将来の夢はバイクメーカーのメカニック(整備士)! もしくは、レースのピットクルー(修理場でレース前のマシンの整備やレース中の修理、燃料補給、タイヤ交換などを行うスタッフ)!
夢実現のため、進学先は工業大学と心に決め、高校2年のときにはガソリンスタンドでアルバイトをしていました。
ところがそのとき、オーナーからも先輩からも、「お前みたいな危なっかしいやつは、絶対に運転免許を取るなよ!必ず人身事故を起こすぞ!」と言われてしまったのです。
意気消沈していたとき、民放テレビ局で“看護師が足りない”とのドキュメンタリーシリーズが報道されているのを見ました。
通っていた女子高校は進学校で、気づけば、医学部や薬学部志望者は多くいるものの、看護学部志望者は1人もいませんでした。「だったら、私は看護師になろうかな?」と、深く考えることもなく志望変更し、看護大学に進学しました。
ところが入学して間もなく、シーツ交換や食事の配膳程度の臨床実習が始まった途端、「病院とか闘病って、ちょっと苦手かも…」と直感。
かといって、高額な入学金や授業料をフイにするわけにもいかず、どうしたものかと思っていたときに、友人から「4年生で助産学を追加で選択して、助産師になればいいよ。お産は病気じゃないから、きっと大丈夫!」と励まされたのです。
四苦八苦しながらも、なんとか助産学を選択し、卒業することができました。
就職先は「重病患者さんが絶対に入院しない施設」と決め、都内の個人の産婦人科病院を選びました。月に100件以上のお産があるだけでなく、女性や子どもへの暴力と医療をつなぐための活動に先進的に取り組むエネルギッシュな病院でした。
助産師として性暴力被害にあった人へのケアを学び、女性や子どもの健康のために多彩な職種の人達と連携していくことの大切さ、難しさを知りました。
その活動から「医療の現場とは離れたところから、女性や子どもの問題にかかわってみたい」と、5年目の終わりに退職しました。
学生時代を職業教育と生活のためのアルバイトに忙殺されて過ごし、モラトリアム不足だったのか、その後は興味を持ったことに片端から足を突っ込みました。「遅れて到来した疾風怒濤の季節を、たっぷり楽しんだなぁ」と落ち着いたのは30歳をとうに過ぎた頃でした。
【骨盤ケアとの出会い】
当時のパートナーが東京から茨城県に転勤になり、私も一緒に引っ越すことになりました。
まったく知らない土地で知人もいないので、「せめて仕事は馴染みのある世界がいいかな」と思い、助産師として再就職しました。再就職した病院では、切迫流早産の多いこと! 吸引分娩や大量出血などにもつれ込んでしまうお産の多いこと!
「自分の助産技術が低下してしまったのだろうか?」と嘆いていたとき、専門誌で(旧)母子整体研究会の広告を目にして、セミナーに参加しました。
体操用ゴムチューブを使っての体操や、トコちゃんベルトでの骨盤輪支持で体がラクになった驚き、ベルトを外した瞬間に内臓がドーンと下がって、なんだか気分まで落ち込んでしまった不思議な感覚は、今でも鮮明に覚えています。
未産婦で、しかも、それなりにスポーツに親しんだ私でも、これほどの骨盤の緩みや内臓下垂があるのなら、車社会で歩く機会も少ない茨城の若い妊産婦さん達は、いかばかり?
そんな疑問と同時に、「妊娠分娩経過が順調にならない原因は、ちゃんとあるんだ!」と、納得させられたのです。職場ではベルトの価格に渋面の方には、さらしを使ったケアをしたり、ゴムチューブだけは購入してもらったりと、少しずつ骨盤ケアを実践しはじめました。
【再びの長期離職】
ところが、半年もしないうちに慢性疾患に遭遇し、あえなく退職。暖かい横浜に戻り、療養しながら余暇を利用して独学で保育士資格を取得しました。
その間、散々な目にもあいましたが、病気で得たものの方が大きく(大げさにいえば病気に救われた?)、“黒字人生”への転機となりました。
ようやく病状が落ち着いてきた3年後には、内服薬の影響もあって、身長156㎝体重50kgから、98kgまで増えていました。
腰への刺すような痛みと膝の痛みで1kmの距離を歩くのに3回も休憩しないといけなかったり、立ち上がるだけでも尿漏れがあったりと、とても健康になったとは言えない状態でした。
そんなとき、ようやく骨盤ケアのことを思い出したものの、当然手持ちのトコちゃんベルトはサイズが合わず、さらしも4分の1反では足りません。3分の1反のものを作って、ようやく骨盤輪支持ができるようになりました。
“骨盤ケアの三原則”に沿ってセルフケアを再開したところ、腰痛はみるみる軽くなり、尿漏れも完全になくなってしまいました。「骨盤ケアって本当にすごい!」と身をもって実感しました。
【再復職】
のんびりと単発の訪問看護などのアルバイトをして過ごしていましたが、だんだんとお産の世界に戻ってみたい気持ちが抑えきれなくなってきました。
体力も回復してきたし「やりたいことはやっておかないと…」との一念で、10年のブランクの後に、助産師として再復職しました。
久しぶりの産科では驚愕の連続。妊婦さんのお腹を触診しても、赤ちゃんの背中がどこにあるかわからない?!エコー診察の場に立ち会ってみたら、妊娠37週になってもエコーでお顔が見える赤ちゃんや、お腹の中でねじれた姿勢になっている赤ちゃんの多いこと!
妊娠初期から腰や恥骨の痛みでつらい人、子宮頸管長が短くなっている人も多く、「これはもう、すぐにでも骨盤ケアの復習に行かなければ!」と、あわててメンテ“力”upセミナーを申し込みました。
会場で、渡部信子先生がじっと私を見て「あんたどっかで見た顔やなぁ…。ああ、そうや『茨城は北関東ではありません。南東北です』って言うとった人や!」。
畳みかけるように、「えらい丸うなったなぁ」と言われて、「何年も前に、ほんの数回セミナーを受講しただけで、これだけ体型も変わっている人物を看破できるとは!
「それだけ1回1回のセミナー、1人1人の受講者を大事にしながら、骨盤ケアを広めていらっしゃったのだな。これがカリスマ助産師トコちゃん先生だ!」と感動しました。
さらにセミナーの内容は、基本は変わらなくても、現代女性にあわせた細かいケアの工夫が盛りだくさんで、目から鱗が何枚も落ちました。
しかし、トコ企画のセミナーで学んだ知識・技術だけでは、とても解決できないトラブルが多く、トコ・カイロプラクティック学院の総合ベーシックセミナーを受講することにしました。
ところが、臨床で学びを生かそうにも、やはり10年ぶりの助産師復帰は心身への負担が大きく、クリニックを退職しました。
【放課後等デイサービス】
トコ企画の“新生児ケアセミナー”や“赤ちゃん発達応援セミナー”を受講して、「子どもの成長と発達について、もっと勉強したいな」と思うようになりました。
「保育園でアルバイトはできないかしら」と探しはしたものの、なかなか条件に合う求人はありません。
そんなとき、障がいのある小学生から高校生までの子ども達が利用する“放課後等デイサービス”という福祉サービスがあることを知りました。
短時間勤務の看護師・指導員のアルバイト募集があったのです!事業所によって差はありますが、学校のある平日は放課後14~17時くらい、土曜日は10~16時くらいの活動なので、拘束時間は短く時給はまあまあ、仕事内容も面白そう。
小児科看護の経験はなかったので、はじめは療養中に取得した保育士資格で働いていましたが、職員配置の都合もあり、今は看護師として勤務しています。
重症心身障がいの子ども達のための事業所なので、体がガチガチに緊張しているか、くにゃくにゃな子どもがほとんどです。
元気に通所してくれるだけでも嬉しいほどの障がいの重い子、ちょっとした気候の変化で体調を崩してしまう子も多いです。
そんな子ども達に、ベーシックセミナーで習った上肢ケアなどをすると、にこーっと笑顔を見せてくれることもありますが、少し気を抜くと泣きだしたり、手を払いのけられたりと、なかなかに厳しい評価を下されます。
「“優しい手”までの道のりは険しいな」と思いながら、遊びや医療的ケアの合間に整体ケアを続けています。
【これからの夢】
デイサービスに通ってくる子ども達はもちろんですが、そのご家族、特にお母さんやきょうだいの体も、「大変なことになっている!」と気づかされます。
私の夢は、高校を卒業し支援の少なくなった子ども達や、そのご家族を対象とした“ボディケアスタジオ”を開くことです。それにはスタジオに来てもらえるケア技術が必要ですので、これからさらに研鑽を積まなければなりません。
昨年末にカイロプラクティックコースを修了しましたが、「子ども達へのケアには交感整体での学びが絶対に必要だ」と思うようになり、次のコースからの受講を予定しています。
「そんな大それたことを…」と思うこともしばしばですが「あんたの手はヒーラーの手やな~。身に着けた整体技をもっともっと駆使して、人生を歩まなあかんで~」という信子先生の言葉を灯に、夢の実現に向かって努力していきたいと思います。