愛知県のフリーランス助産師 梅田 奈津枝 先生のコラム
愛知県岡崎市で、クリニック勤務の傍ら開業

 
【はじめに】
皆さん、はじめまして。愛知県安城市在住の助産師 梅田奈津枝です。
骨盤ケアを学び「いつかは開業したいなぁ」と思う反面、「まだまだ、開業できるほどではない」「自宅開業は家が狭くて難しい」「でも今の勤務助産師のままでいたくない」と悩みながら過ごしていました。

50歳を超え「このままでいいのだろうか?」と悶々としていた矢先に、お隣の岡崎市で賃貸物件が目に飛び込みました。
不動産会社に連絡したところ「3件あった物件があと1件しか残っていない。それにも問い合わせが複数来ている」との返事!起業する人の多さに驚くとともに、「これは開業するチャンスかもしれない」という想いが強くなり、すぐに物件見学に出かけました。
一目ぼれですぐに賃貸契約、そして、つい1か月ほど前、夜勤専従の非常勤をしながら開業する運びとなりました。

【看護師に】
子どもの頃の私は「看護婦さんか保母さんになりたいなぁ」と夢見ていました。しかし、保育士になるにはピアノやオルガンが弾けないといけないと知り、その道は諦め、看護師を目指しました。
21歳で看護師になってすぐは一般病院に勤めていましたが、次第に赤ちゃんのお世話ができる看護師になりたいと思うようになりました。

5年間務めた後、総合病院へ転職し、NICU兼新生児病棟で勤務できるようになりました。
生まれながらに障害を持った児、低出生体重児~極低出生体重児、多胎児、そして正常新生児の看護に携わることができました。
あるとき、正常新生児に中に、親指の爪のあたりが生まれながらに赤くなっている子がいたのです。不思議に思い先輩スタッフに尋ねると「それは吸いダコだよ。お腹の中からおっぱいを吸う練習をたくさんしていたんだね」と教えてくれました。「赤ちゃん達はお母さんのお腹の中で、たくさん学習をして生まれて来るんだなぁ」と感慨深く思ったものでした。

【助産師に】
その後、小児科外来勤務などを経験し、産科クリニックへ転職しました。
そのクリニックで初めて、分娩から産後の母子ケアに携わることになったのです。それまでは、赤ちゃんのケアが主で、母子一体で看ることが少なかったせいか戸惑うことが多く、先輩スタッフに学びながら指導・看護ケアを行なっていました。

そんな日々を過ごすうちに、2人の助産師さんの声かけや手当ての違いで、分娩進行や授乳の状況が変化することに気づいたのです。すると、「私もあんなふうになりたい」と思うようになり、看護の相談やケアの実際の様子を、見学するようになりました。
自分が納得できる看護ケアを行えるようになった頃、その助産師さん2人と院長夫人から「助産師を目指さないか?」と勧められました。でも、看護学校卒業から時間が経っていたため、「また1から学校に通うなんて…」と抵抗する心もあり、迷っていました。

そんな中、助産師さんの1人が病気のため亡くなりました。
亡くなる少し前にお見舞いに行くと、彼女は迷っている私に「人生何があるか分からないから、最初から諦めないで、挑戦しないといけないよ」と諭してくれたのです。
その言葉に背中を押され、助産師を目指すことを決意、3年という時間はかかりましたが助産師学校に入学し、無事翌年、助産師となりました。

【骨盤ケアとの出会い】
助産師となって再度総合病院に勤務し、分娩介助や産後のケアで目まぐるしい日々を送っていました。
クリニック時代と比較すると、看護師から助産師へと立場は変化しましたが、母子への支援するのは変わらないと思っていました。しかし、クリニックと総合病院の違いからか、少しずつ違和感を覚えるようにもなりました。

とにかく、自然なお産が少なく、赤ちゃんはよく泣き、母乳哺育はうまくいかないのです。クリニックではマタニティヨガに力を入れていたことが良かったのか、吸引分娩が少なく、自然でスムーズな分娩が多かったのに…。
それに、どちらも出産の翌日から母児同室だったのに、クリニックでは同室初日からベビーを「新生児室で預かってほしい」と言うお母さんはいなかったし、夜間に「赤ちゃんが泣いてばかりいる」というナースコールも少なかったのに…。
でも当時の私は、それは「この病院は無痛分娩を希望する人が来院するし、吸引分娩も多い。地域柄が違うから仕方がないんだ」と思い込んでいたのです。

助産師2年目に先輩から誘われ、(旧)母子整体研究会セミナーを受講。「助産師学生時代に実習病院でやっていた人がいたなぁ」と思ったものの、その当時、骨盤ケアを学んでいる先輩は院内に誰もおらず、そのままで終わってしまいました。
その後、渡部先生のメンテ“力”upセミナーを受講する機会があり、「なぜ今のお母さん達はこんなに辛いのか? 赤ちゃんはよく泣くのか?」ということを知り、本当に“目から鱗”状態でした。
その前からも「セミナー受講が趣味のようだね」と言われていた私は、トコ企画やトコ・カイロプラクティック学院のセミナーを夢中になって受け続け、トコちゃんベルトアドバイザーも取得しました。
しかし、助産師歴が浅く、院内に骨盤ケアを行う同志もいない状態で、なかなか妊産婦さんへのケアができない状態が続いていました。

【骨盤ケアで仕事のモチベーションが変化】
「セミナーで学んだことを生かせないなら転職しよう」とも考えたのですが、「まずは出来ることからコツコツと」の精神で、分娩係や褥室担当になったとき、個別に操体法や骨盤輪支持を行なっていました。すると、妊産婦さん達からのアンケートなどで「あのときはすごく楽になった」という声を頂けるようになり、骨盤ケアに関心を持つスタッフも現れ始めました。

さらに、「患者さんに良いことは取り入れよう」という看護課長の考えもあり、病棟内で学習会を行い、産後すぐからの骨盤輪支持を行うようになりました。
その後約6年かけて、骨盤ケア教室開催、ベビーコットへの「院内専用天使の寝床」「院内専用マイピーロネオ」の標準装備ができるようになりました。また、スタッフの中にもトコちゃんベルトアドバイザーが増え、「さぁ、これから骨盤ケアを盛り上げていこう!」と、仕事へのモチベーションはますます上昇。
充実感を満喫しながら働いた日々は、幸せそのものだったのに…、そんな日々は長続きしませんでした。総合病院ならではの悩み…、ベッドコントロールのため、他科の患者さんが増え、妊産褥婦や新生児に関わる仕事や骨盤ケアをする機会が減り…。

低下する一方のモチベーションに耐え切れず、個人の産科クリニックへ転職する決心をし、2018年4月に今のクリニックに就職しました。
クリニックで分娩や産後のケアを行っていると、子宮の形が悪く分娩進行が思わしくない産婦が多く、生まれた赤ちゃん達はよく泣き、哺乳力が悪く、排泄が悪いなどの問題を抱えています。
そんな中で、「やはり、妊娠中からのケアが重要ではないか?」との想いが強くなりましたが、今のクリニックでは事務系スタッフの意見が強く、医療職から企画を出すことは難しいと知らされました。

【これから】
悶々とした毎日を過ごしているときに、いい物件に巡り合えたのは何という幸運! 開業したのが11月7日、まだ開業したてのホヤホヤです。
私自身、トコ・カイロプラクティック学院のセミナーを受講する前は、頭痛持ちで薬が手放せない状況でした。ここ数年、毎月のようにセミナーを受講し、セミナー中のメンテナンスとセルフケアで、とても体が楽になったのを実感しています。
「体が楽になる、未来が楽になる」そんなサポートができればと思い、「ケアサロン みらくる」と名付けました。

お越しいただいた方は、クリニックでケアした方や、チラシを見て予約してくださった方で、まだリピーターは2人です。
今はクリニック勤務をしながら、広告チラシやHP作成に取り組んでいます。妊娠中からベビーへのケアはもちろんですが、その他にもいろんな取り組みをしたいと考えています。
これからも学び続けながら、たくさんの方々の笑顔に会えることを夢見て頑張ります。