山梨県の開業助産師 山本 由紀 先生のコラム
変形性股関節症の苦しみから選んだ開業助産師3代目

 
【開業助産師の家庭に生まれて】
山梨県韮崎市の韮崎助産院で、骨盤ケアとベビーケアをしている山本由紀です。
私の祖母は女学校卒業後、産婆学校に1年半通い、実地訓練の末、産婆になりました。
その後、日本の統治下の台湾で働く祖父のところに嫁ぎ、子ども5人を育てる傍ら、産婆として働いていました。
終戦後、家族7人引き上げ船に乗り、命からがら帰って来たものの、祖父には行商ぐらいしか職がありませんでした。
家族みんなが生き延びられたのは、祖母が産婆であったからだと聞きました。その後、祖父は小学校の教師となり、祖母は韮崎産院(助産院)を建てました。
ところが、私が小学校入学前、祖父が交通事故で寝たきりになってしまい、介護のために廃業しました。

母は地元の病院で看護師助産師として勤務していましたが、祖父母の三男(第4子)である父と結婚。子ども4人を大学に行かせるために、私が高校入学の頃に自宅を建て替えて、現在の韮崎助産院を開業。
助産院が忙しくなってくると、父も会社を退職して助産院の手伝いをしてくれました。そのおかげで私達きょうだいは、そろって県外の大学を卒業することができました。

祖母は母の手伝いをしながら、90歳近くまで現役で働き、102歳で生涯を終えました。大正生まれの女性としては珍しい“職業婦人”でした。

【開業助産師の家庭の嫌な面】
この様な開業助産師の家庭では、良いところだけでなく嫌な面もありました。2人とも気が強く“嫁と姑の争い”が激しく、「助産師はそうでないとやっていけないものなんだ」と子どもの頃は思っていました。
幼児期に世話をしてくれたのは祖母でしたが、とても厳しい上に、作ってくれる食事が不味くて、残すとひどく怒られました。祖母は仕事一筋で生きて来たため、家事が上手ではなかったのです。
フルタイムで働く母も忙しく、家にいても山程ある家事を、子ども達のお尻を叩きながら、こなすことに追われていました。

私達子どもの成長を見つめる余裕はなく、学校での出来事をじっくり聞いてくれたり、相談したりできるような人ではありませんでした。
せっかちで話もろくに聞かずにパパッと決めてしまうので、こちらとしては納得できないまま一方的に押し付けられた感が多々ありました。今でもモヤモヤした感じが残っています。

父は幼い頃に両親と過ごす時間がなかったため、子どもとはプールや虫取り、バドミントンや将棋などでよく遊んでくれました。話も色々聞いてくれたのに、肝心なときは母の一言で全て覆されることもしばしば。
あの2人に挟まれていては立場が弱く、子どもながらに「頼りにならない…。家長なのにかわいそう」と思っていました。

結局、「決めるのは自分だ」と考えるようになり、生活面だけでなく精神面でも早く自立できたと思います。「経済的自立も大事だが、家族一人ひとりを大事にできる母になりたい」と思ったものでした。

【開業助産師の家を出て大学に】
祖母・母ともに開業助産師であったため、助産師はとても身近な職業でしたが、私自身は英語が好きで、「教師になる!」と決めていました。教師であった祖父の影響もあったのかもしれません。

進路についてまともに母と話し合って来なかったにもかかわらず、高校の三者面談での母の言葉で私の進路が決まったのです。
「女性は手に職を持っていれば経済的に自立できるし、特に開業権をもつ助産師はどこでも生きていける」。さらに「これからは看護職も大学教育が必要になるから」と、看護大学を勧められました。

高校生の頃は「言われたことを効率的にこなせるのが大事な資質」との価値観が強く、しかも、比較による評価がそこに加わり…。そんな時流に窮屈さを感じていたのに、大学に入学すると、一転して教員の寛容さに驚かされてばかり。
学生の思い付いたままの浅はかな回答も否定することなく、自由な発想を受け入れてくれる教員。優しくて優秀で自分に足りないものを気付かせてくれる友達。
このような恵まれた居所を手にし、「家を出て良かった」と水を得た魚のように学生生活を楽しみました。

看護実習や海外研修で、一人ひとりの価値観の背景を考えるようになり、人と比べるよりも「一人ひとり違って当然!」ということを学び、ありのままの心地よさと自由を感じました。患者さんを受け入れる優しさや人間性も育ったと思います。

祖母や母が自分の時間や家族を犠牲にしてきた理由も理解できました。
祖母は戦前戦後の周産期医療のために、母は過度な医療介入をしない自然分娩のために、それぞれ高い志や使命感を持って開業したのです。
妊産婦とその家族から必要とされ感謝される喜びや、出産時の感動が力になっていたと知りました。

【病棟勤務看護師時代】
卒業後は総合病院の内科に看護師として就職しました。大学の母性の教授から「看護師経験があった方が、後々助産師に役立つから」と勧められたからです。寝たきりの患者さんが多い病棟だったので重労働でした。
中学高校はハンドボール、大学以降はテニスで鍛えた筋力も陰りがでて、就職して4年目、変形性股関節症が見つかってしまいました。腰痛や頭痛も出て仕事に差し障るようになり、整形外科医からは手術を勧められましたが、両足だったためとても悩みました。

当時のユニフォームは、ワンピースの白衣・ナースシューズ・ストッキングだったのですが、「足の負担を減らすためにスニーカーに靴下、できればスラックスを履きたい」と看護部長にお願いに行ったことがありました。
すると「若い看護師がそんなわがままを言うくらいなら、辞めても構わない」という対応でした。あまりのショックにあふれる涙を堪えきれず、泣いたことを今も忘れられません。部長室に居合わせた看護師長が駆け寄って来て、廊下で慰めてくれたことも忘れられない思い出です。
病気で悩む人の心の傷つきやすさ、もろさを経験し、辛いときに優しく寄り添ってもらえることが、どんなに有難いことかを知りました。

【助産師に】
看護師を辞めて数か月後、体調も良くなって来たので助産師学校に進学しました。しかし実習に出ると股関節痛が再発したため、助産師として働けないのではないかと自分に自信を無くしていました。

卒業後、看護大学の教員不足の時代だったので、勧められるまま地元の看護大学で助手となりました。
2年目に結婚し、その後まもなく退職し大学院に進学。院生生活を送りながらの出産・育児はハードで、ギックリ腰にもなり、夫と義母の助けを借りて、夜中まで論文を書く日々が続きました。
教育や研究職にはとてもやりがいを感じましたが、突き詰めて考える作業が多く、時間がいくらあっても足りません。子どもの成長を見る余裕がなくなっていたことが悔やまれたので、大学院卒業後は育児を優先し、実家の助産院の手伝いをすることにしました。

【助産院の仕事】
助産院では産婦主体の自然分娩を扱うため、生まれるまでは2日でも3日でもずっと寄り添っていました。大変だった分、「助産院ならでは」と、達成感や喜びを産婦さんやご家族とも分かち合うときは幸せそのもの。
その一方で入院が続けば2週間でも3週間でも仕事は休みなく続き、難産で徹夜が重なったりすると、睡眠不足で体力的にかなり厳しい状況が続くことも…。
でも、助産院が実家なので、家族のおかげでどんなに忙しくてもほぼ毎日、娘と顔を合わせることができたことを感謝しています。
娘は助産院から近い幼稚園・小学校に通っていました。私が助産院に泊っているときは、夫が出勤前に娘を助産院まで連れて来て、仕事が終わると娘を助産院から自宅に連れて帰りました。
娘の食事や幼稚園のお弁当は用意でき、お産などで忙しいときは、父が幼稚園の送り迎えをしたり、遊び相手をしたりしてくれました。母も孫娘には寂しい思いをさせまいと、色々気を使ってくれました。

助産師2人で4床しかない助産院なのに1日に4人も生まれ、しかも既に3人入院していたので、合計7人になってしまった日のことです。
腰痛・股関節痛・寝不足で疲労困憊していたところに、母のキツイ言動に耐えられなくなり、家を飛び出してしまったのです。県外の妹のところに逃げ込み、翌日帰ったときには、さすがに母は怒らず、何も言いませんでした。母も疲れていたはずなのに、「申し訳ないことをした」と今も悔やまれます。

【骨盤ケア・“まるまる育児”との出会い】
この状況を何とかしないといけないと思っていた2005(平成17)年、(旧)母子整体研究会主催の骨盤ケアセミナーに出会いました。
妊娠中の腰痛や、2日も3日もかかる難産は骨盤のゆがみが原因で、大量出血は骨盤輪を支えれば防げるという内容に衝撃!「出産時は骨盤が緩み、赤ちゃんの頭には応形機能があり、時間をかければ産める」という考えは古いと知りショック。
同時に「これからは助産師の技術でお産の進行を速められるんだ! 骨盤輪支持をして大量出血を減らしたい! 早く試してみたい!」と、わくわくしながら帰宅しました。

実際にセミナーで習った骨盤輪支持や操体法、整体をすると良い陣痛が来て、決まって4~5時間後には出産に至るケースが幾度となくありました。
出血多量で血圧が戻らず、母体搬送になることは一切なくなりました。妊婦さんにトコちゃんベルトを巻くように勧めると、腰痛が軽減し日常生活が楽になると喜ばれました。

また、セミナーで「胎児姿勢に問題があると、お産が大変で出生後は育てにくい子になる」「“まるまる育児”が発達を促す」「首据わりの大切さ」「お座りの時期」「ハイハイの重要性」などを知りショック。
当時3歳になっていた娘を、新生児期からフラットに寝かせ、向き癖があったことも気にもせず、首が据わったらお座りをさせ、ハイハイをしないまま立膝で移動していたことを思い出して、後悔の念に駆られました。

私の変形性股関節症も骨格のゆがみが原因で大きな筋力に頼らずインナーマッスルを使えるようにすると、痛みが減ることがわかりました。
すると、「もっと知りたい、もっと上手くなりたい!」と心が躍り、その後も、(旧)母子整体研究会や、トコ・カイロプラクティック学院のセミナーに通い続け、2007(平成19)年5月にカイロプラクティックセミナーを修了しました。

【穏やかに暮らせる日々に感謝しつつ】
現在、うたた寝やパソコン仕事などで、長時間同一姿勢でいると腰痛、股関節痛が出てしまいます。
整体の勉強をしたことで関節可動域や負荷を考えられるようになり、ゆがみを整える体操をして、よく寝ると痛みは治まります。ひどい頭痛や歩行困難などもないため、整形外科にかかることもありません。

助産院の分娩件数は以前よりも減りましたが、トラブルはほぼ無く、助産師の負担も減り、仕事と家事の両立にも余裕が生まれました。
骨盤ケアも自分のペースで予約を受け、娘の成長を見守り、共に行動し考える良き母でいられる幸せを噛みしめています。
来年4月、娘は看護大学に進学し上京します。寂しさも感じますが「将来は助産師になりたい」と話し、素直に育ってくれた娘に感謝しています。

私は自分の育った環境や家族を通して、母親には心と体にゆとりが大事だということを学びました。
骨盤ケアには硬い体をほぐして楽にしてあげるだけでなく、モヤモヤした気持ちを整理して、育児を楽しめるスペースを広げる役割があると思っています。

妊娠・出産・育児にまつわるトラブルは、「時期が来ればなくなるから」と放置されがちですが、そうではありません。
痛みや不安を取り除き、安心安定した日常生活を早く手に入れるケアがあることを、多くの女性に知って欲しいと願って仕事をしています。

持病があっても、ママや赤ちゃんに寄り添い、何年間も頼って来てもらえる仕事に出会えたことに、深く感謝しています。