【はじめに】
皆さん、はじめまして。富山県黒部市にて「ママの手~育児と手仕事の教室~」を運営している作業療法士の金井律子です。
私のところでは、骨盤ケアや“まるまる育児”などの体にかかわることから、ミシンやアルバム作りなどの趣味活動まで、ママ達が育児をもっと楽しく、もっと優しく、もっと充実させていくためのお手伝いをしています。
生まれ育ったのは、静岡県伊東市。温泉地帯なので普通の家でしたが、お風呂に温泉の出る蛇口が付いていました。
雪が降ることもなく、温かい温泉に浸かって育った私が、雪深い黒部市に移り住んで7年。寒さと雪にはなかなか慣れませんが、住めば都。おいしい食べ物と素晴らしい仲間に囲まれ、黒部での暮らしを謳歌しています。
【小さい頃から“運動オンチ”】
私は1980年、1カ月早産で生まれました。母は低置胎盤早期剥離による大出血で、輸血を受けたそうです。「骨が柔らかいから発達が遅い(?)」と言われ、保健センターに何度も通ったと聞かされました。
小さい頃から頭痛持ちで、ブランコで酔うほどの“運動オンチ”。外遊びでは友達についていけず…。小中学生時代、体育の成績は他の教科と比べたら常に1段階か2段階下。
運動会や持久走大会が憂鬱で仕方ない子どもでした。小さい頃にこんな体験をすると、自己肯定感は育ちません。
幸い、後々“勉強ができる子”と褒められる子になったものの、それでも、“自分はできない人間”という気持ちから解放されることはなく、自己肯定感の低い人生を送ってきました。
母は中学校の理科の教員でしたが、保健体育の免許も持っていて、ママさんバレーでも活躍。姉は中1の頃から市の駅伝大会選手。
父はあまり運動が得意でないのですが、遺伝的に悪い要素(笑)というほどでもないので、「やっぱり早産だったからじゃないか?」と、母は考えていたようです。
35歳で私を産んだ母親は、その後も体重10kg増をキープし続け、30年以上経った今は、すっかり“産後太りのおばさん体型”。
姉と私は6歳離れていて、今考えてみると、第1子の産後のケア不足から第2子不妊。やっとできた第2子は低置胎盤早期剥離から早産。
その後も開きっぱなしの骨盤で、大きなお尻と更年期障害に悩む母と、運動オンチで小さい頃から自己肯定感の低~い子どもの出来上がり、というところでしょうか。
【手工芸が大好きなのに…】
そんな運動オンチな私は、幼稚園の自由遊びの時間は、もっぱら室内遊び。
公立の普通の幼稚園でしたが、やりたい子には本物の針と糸を持たせてもらえました。簡単に作れる俵型のお手玉や、端切れとリボンで作るポシェットを、クラスで一番たくさん作っていました。
その後も、洋裁・和裁から機械編みも手編みもこなす祖母の影響で、編み物や刺しゅうなどもしました。
小学3年生のとき、当時20万円もする高級ミシンが我が家にやって来ました。付いていた使用法のビデオテープで独学し、初めて雑巾を縫い、その後は袋物から洋服まで、独学で色々と作りました。
中学時代にはマニアックなほど、手工芸が大好きになってしまったのに、その道には進みませんでした。なぜって…、美的センスに自信がなかったことと、ゼロから洋服を作ることには興味がなかったからでしょうか。それに、両親ともに国立大の教育学部卒で、そういう選択肢など毛頭ない環境だったからでしょうか。
趣味にどっぷりつかりながら、都会へのあこがれと「大きな手芸店がある!」という不純な動機で東京の大学を選び、工学部に進みました。
ところが、やりがいを見出せず、交際中の彼氏に甚平やパジャマを作ってプレゼントするなど、手工芸への憧れを半端に引きずったまま、作業療法学科のある大学に入り直しました。
2008年、作業療法士の資格を取得し、横浜のリハビリ病院に就職。
当然のことながら、リハビリ病院ですからあまり手芸等を活用することもなく、2年後、結婚を機に退職して大阪に引っ越しました。
【出産、“まるまる育児”・骨盤ケアとの出会い】
大阪では半年ほど勤めましたが、出産と夫の転勤で退職。しばらくの間専業主婦として育児に励み、1人目の生後11カ月のとき、富山県に引っ越しました。
「こんな実家からも遠い田舎に来てしまったんだから、さっさと産むしかない!」と、立て続けに第2子・3子を出産。3年8カ月で3人を出産しました。
“まるまる育児”との出会いは、第3子の妊娠中でした。
第2子が見事なまでの絶壁頭になってしまい、悩んだ私は市の子育て支援センターで発達講座を担当している竹内華子先生に、個別相談をお願いしました。
そのときの私は、出血からの切迫流産で安静生活が始まったところで、竹内先生からは「この子の頭の形も心配だけど、まずママが動けるようにならないと何もできないよ」と、骨盤ケアに熱心な病院と、自宅に来てくれる助産師さんを紹介されました。
その後、長期の自宅安静。最後の2カ月は1歳10カ月と2歳半の子どもを家に残して入院。ウテメリンの点滴につながれてしまいました。
そのまま退院することもできず、クリスマスもお正月も病院で過ごしましたが、無事、37週0日、第3子を出産しました。
この子が2カ月のときに、助産師の林さんから“おひなまき”とスリングを習いました。竹内先生のベビーマッサージの教室などにも通い、3人目だけ“まるまる育児”で育ちました。
このときに、私がマニアックにミシンが好きなことを話すと、当時、スリングの縫子を探していたエジリングの江尻さんを紹介され、すぐに縫子の仕事をするようになりました。
小学3年生のときから30年近く愛用し続けたミシンは、つい2年ほど前までスリングを縫うのに活躍していました。
【指導者側に回ることを決意】
末っ子の1歳の誕生日が見えてきたとき、きれいな頭、チャイルドシートに1人でよじ登るなどの運動能力、箸やスプーンの習得の早さ、座ったときの姿勢の良さなど、上の2人との違いを目の当たりにするようになりました。
「自分のような子ども時代を過ごす子どもや、母のような体調不良で悩む女性を少しでも減らせたら…」と、指導者側に回ることを決めました。
同じ国家資格の華子先生からも誘われ、助産師の林さんが自宅で開業している様子も見聞きし、指導者になるための指導を受けられる環境にも恵まれていました。
自営業者として開業した当初は、スリングの縫子と、手芸店の下請けで入園入学準備品の縫製の仕事、手芸店や自宅でのミシンの教室開催。
それから、アルバム作りの教室や、林さんのサークル活動を手伝ったり、ベビーマッサージを手伝ったりしながら、トコ企画のセミナーを受講。
さらに、各種アドバイザー養成セミナーを受講し、その年末までに、エジリングアドバイザー、トコちゃんベルトアドバイザー、まるまる育児アドバイザーを取得し、自宅で指導するようになりました。
【夢がすべて叶った】
思い返せば、私が憧れていたことって?
・子どもの頃は小さい子が好きで、保育士になること。
・医学部までは無理だけど、体にかかわる仕事をすること。
・就職・結婚してからは、自分が作った品を自分で売ること。
人生の中で移り変わったり、出ては消えていたりしたそんな夢が、いつの間にか全て叶いつつあります。
自営で仕事を始めて1年後に自宅を新築し、田舎の一軒家ならではの広い部屋で、各種教室などを開催。
多いときで5組ほどの親子が来られ、賑やかに過ごすこともあれば、ときには1人で1日中リビングの一角に設置したミシンを踏んでいる日もあり、マイペースに働いています。
【「もう1人産もうかな?」と思える場作り】
現在は、ケアの技術を身に着けるべく、トコ・カイロプラクティック学院の総合ベーシックセミナーを受講しています。
骨盤ケアや“まるまる育児”の指導で、自分の体と子育てが楽になったお母さん達に、子育てを学ぶ場と、手芸やアルバム作りなどの趣味の場、集いの場を提供し、ホームページを開き Facebook でもお知らせしています。
https://www.mamanotekanai.com
達成感や楽しみを見つける中で、「充実した育休だったな~、こんなに楽しいなら、もう1人産もうかな~」と思えるような場作りを展開しています。
「こんなことも少子化防止に役立つのでは?」と、うれしい気持ちになる中で、低かった自己肯定感が少しずつ高まっているのを実感しています。