静岡市の開業助産師 吉田順子先生のコラム
私が味わったような“気持ちのいいお産”を

 
【はじめに】
皆さんはじめまして。吉田順子と申します。富士山を望む静岡市で、ノア助産院を開業して9年目を迎えました。
昨年9月に出張分娩を取り扱う助産院として開業届を変更し、再出発しました。でも、まだ分娩は取り扱っておらず、ただいま準備中です。
ということで、仕事はこれまでと同様に、トコちゃんの骨盤ケア教室・まるまる育児教室などを開催したり、母乳育児支援や、産前産後の女性の体の痛みや不調に対する個別ケアなども行っています。
開業と同時に、近隣のレディースクリニックで、非常勤で妊婦健診や分娩介助に当たっています。また、今年に入って、近隣の助産院で研修もさせていただいています。

【体が弱かった子ども時代】
私は幼稚園児時代、繰り返し扁桃腺炎にかかり、扁桃腺摘出術を受けました。それまでは1年の1/3は幼稚園をお休みしていましたが、手術後は元気になり休むことはほとんどなくなりました。
でも、アレルギー体質もあり、アトピー性皮膚炎・慢性鼻炎・副鼻腔炎…、と年中病院のお世話になっていました。小学4年生の頃には、1人でバスに乗って病院通いができたくらいです。

そんな生活でしたから、お世話になった看護婦さんがとてもカッコよく見え、その頃から「看護婦さんになりたい」と思うようになりました。
そういえば、小学生の頃、飼い犬の出産に立ち会いました!それが初めての分娩介助だったかもしれません。子ども心にも命の誕生に感動し、朝まで一緒に寝ていたことを思い出しました。

【高校~助産学生時代】
高校受験の時、すでに「将来の夢を看護婦になる!」と決めていた私は、准看護婦免許が取れる高校の衛生看護科へ入学。その後、看護婦免許取得のため看護学校へ進学。そこで私に転機が訪れました。
産婦人科実習で赤ちゃん誕生の瞬間に立ち会った感動、そして内科病棟実習で受け持ち患者の死。命の現場を目の当たりにして、私は人の一生の始まりに立ち会いたいと助産師を目指すことに決めたのです。

助産学校では病院や助産院での実習、研究活動など4人のチームメイトと昼夜問わず支え合い、仲間の大切さを感じる1年間でした。
出産には様々な形がありました。赤ちゃんとママの力を信じて待つお産。医療の力を借りて頑張るお産。帝王切開手術によるお産。私の理想は“待つお産”でしたが、いつの日か、医療に頼らない助産院で赤ちゃん誕生のお手伝いをしたいと思いつつ、奨学金返済の都合もあり、修行も兼ね出産の多い総合病院へ就職しました。

【総合病院勤務時代】
就職してすぐに産婦人科病棟に配属され、他の科を知ることもなく、18年の歳月が過ぎて行きました。
総合病院にいた頃は、出産に医療の介入は当たり前のように感じていました。3年目頃までは助産院で働く夢を持っていましたが、助産師だけでは手に負えない出産を見るたびに“怖い”という思いは強くなる一方。「このまま病院で勤務助産師でいいのでは? その方が安全なのではないか?」と、開業の夢は遠ざかっていきました。

【3回の出産と子育て】
総合病院在職中に3回の出産を経験しました。
1人目を総合病院で出産した際は、会陰切開は当たり前の処置で、産後は特に問題もなく産後10ヶ月で職場復帰しました。

そして2年後、前から憧れていた助産院で2人目を出産しました。
妊娠初期に出血があり、中期には重度の貧血となり、助産院出産は無理かと思われましたが、根性で後期には回復し、助産院へ戻ることができました。助産院での出産は、夫や上の子に囲まれ、会陰切開のない、なんとも言えない気持ちのよいものでした。家族で迎えた新しい命に、病院の分娩台では感じなかった幸福感を味わえました。

そして3回目の出産。助産師として色々な出産を体験してみたいと思い今度はLDRのある個人病院を選びました。
出血や貧血はなかったものの、妊娠中から腰痛。出産時も回旋異常でなかなか進まず。何とか自力で出産できたものの、産後の体調は最悪。朝起き上がるのにベッドの上で15分間ほど、モゾモゾ動いてからでないと起き上がれません。やっと起きたかと思えば、階段の両壁に手をついて降りようとしても力が入らず、踏み外して転がり落ちる始末。「なんでこんなにつらいの?」と思いながら、なすすべもなく産後1年以上も我慢の日々が続いたのです。

【骨盤ケアとの出会い】
そんなときに出会ったのが渡部信子先生。
2005年春、静岡県浜松市で開かれた、(旧)母子整体研究会主催の骨盤ケアセミナーに、初めて参加した時のことでした。あまりにつらそうな私の姿を見かねたのでしょうね、信子先生が昼休みにほんの5分間ほど、診察・施術して下さいました。
すると、体が安定し、座っているのが驚くほど楽になったのです。「妊産婦の腰痛は我慢してはいけないんだ」「ちゃんと治せるものなんだ!」「もっと子育てを楽しめるんだ!」と、新しい、明るい未来が見えた瞬間でした。

そこから私の整体修行人生が始まりました。
病院勤務の合間を縫ってセミナーに通い、4年間勉強を続け、少しずつ昔の気持ちを取り戻して来ました。しかし、総合病院ではなかなか思うようなケアができず、このままでは妊産婦さんの体作りをお手伝いできないと思い、病院を辞め、女性の体作りをサポートする助産院開業を決意したのです。

【骨盤ケア専門の助産院として開業】
そしてついに、2010(平成22)年4月、妊産婦専門の整体院として、活動し始めました。
習得した整体技術を使って妊産婦さんの体を整えたり、トコちゃんベルトを使ったセルフケアの指導をしたり。開業して間もない頃の妊婦さんのお話をご紹介します。
3人目妊娠中は切迫早産で2ヶ月以上入院。4人目は妊娠がわかった時から骨盤ケアを始め、その結果、切迫早産になることもなく、2時間のスピード出産で安産。生まれた赤ちゃんも「育てやすくてびっくりした」と。
まだまだ未熟な私のケアでも、ママ達の喜びの声をたくさんいただき、「もっと皆様のお役に立てる助産師になりたい」と、さらに勉強にも熱が入りました。

【自分にやれることがまだある!】
開業して7年目のときのこと、当院で骨盤ケアを受けておられた妊婦さんの助産院出産に立ち会う機会に巡り会えました。
陣痛がなかなか強くならず、晒しを使って骨盤を支えたり、体操をしたり。直接出産のお手伝いをできないので、間接的にかかわらせていただきました。「もっとこうすればいいのに」と思うことはあっても、大先輩助産師がやっている助産院で、口出しはできません。

その時の産婦さんも「私のケア後は陣痛が復活したのに、晒しを途中で外されてしまい、また弱くなってしまった。でも言えなかった」と、後から教えてくれました。無事に出産できてホッとしたのですが、その言葉を聞いて、「ああ、自分でお産を取り扱えれば、もっと早く安産に導けたのではないか?」と、悔しくもあり、「自分にやれることがまだある!」と、再認識した瞬間でもありました。

【これからの夢】
今までの経験上、「産後に体型戻しや痛みのケアをするのでは遅い。妊娠が分かったら、できるだけ早くから母子双方のためにケアをしていくことが大切!」。「妊娠がわかったら骨盤ケアを始める!」これが、女性のスタンダードになるよう、努めていきたいと思っています。それが、私が2人目の出産で味わったような“気持ちのいいお産”をしてもらうための絶対条件だと確信しているからです。
そのためにも、これからは「分娩介助も含め、妊娠中から子どもの独り立ちまでの一貫したケアの提供ができるようになりたい!」。これが私の夢です。

【おわりに】
開業して9年、「このケアは妊産婦さんに使える!」と思うセミナーには、毎月数回参加しています。
27年間の病医院勤務で、分娩の取り扱い件数は1,300を超えました。また、助産院研修の中で、つい先日初めて、自宅分娩介助を体験。貴重な経験させていただき、夢に向かって着実に歩んでいることを実感しています。
静岡市の皆さんから「妊娠したらノアに行けば安心」と、言ってもらえる助産院を目指して邁進してまいります。