宮城県の柔道整復師 鈴木七重先生のコラム
「七夕生まれの七重」と計画出生、不定愁訴を経て柔道整復師に

 
【はじめに】
宮城県仙台市で「女性と子どものすずな整骨院・すずな訪問整体」を開いている、柔道整復師の鈴木七重です。
実家は仙台市東部、建具屋の一人親方の父と、その手伝いをしていた母の間に生まれました。
出産予定日は7月20日でしたが、当時はベビーブーム。陣痛促進剤で出産をコントロールするのが主流でした。
母と看護婦さんが命名で盛り上がり、母が八重子だから「7月7日七夕生まれの女の子なら七重になるね」と、誕生日と名前が決定。計画通りに出生、2,760g。七重と名付けられました。

【幼児期】
2歳の頃、仕事に行く父の車を家の2階の窓から見送っていた私は地面に転落!
往診に来てもらった医師からは、「3日3晩意識が戻らなかったら覚悟をして下さい」と告げられ、両親も覚悟したそうですが、3日目に意識が回復し、幸い後遺症もなく快復。
しかし、地面にぶつけてアザになった左顔面を、人にジロジロ見られるのが嫌で、いつの間にか人目を避けて過ごすようになりました。

住居兼作業場で両親の背中を見て育った私の夢は、自分のお店を持つことでした。その夢が叶ってか、一人院長ですが整骨院を持つことができました。
私がこの職業に就いたきっかけの一つは、子どもの頃からの心身の不調です。

小学校低学年まで悩まされたのが“怖い夢”。夢の中はいつも殺伐とし、家族と一緒にいたはずが…、気が付くと一人ぼっちになっていたり、戦争で逃げまどい身を潜めて死んだふりをしていたり…。
そんな夢ばかり見ていたので、眠るのが嫌でたまらず、母に怖い夢の話をしても、母も対処する方法もなく、困っていたようです。
ですから毎日寝不足、過敏で内弁慶、色白でやせっぽちで体も小さく、すぐに風邪をひく虚弱な子でした。幼稚園は休んでばかり。小学校低学年の頃はいじめっ子に目をつけられ不登校寸前に。母に学校に連れて行かれるうちに通えるようになりました。

小学校中学年頃になると怖い夢はあまり見なくなりましたが、過敏で人見知りは変わらず、乗り物酔いが酷く、遠足は憂鬱でした。
朝起きが辛くいつもギリギリだったため、近道のあぜ道を走って登校。田んぼに落ちないように走ったことが功を奏したのか、集中力と体幹バランスが高まり、虚弱なわりに体育は得意でした。

【進学~就職】
中学・高校になると、人との距離の取り方、集団生活に馴染めず、徐々に生きづらさを感じるようになりました。就職を目指し工業高校に進学し、卒業後は張り切って就職したものの、乗り物酔いが嫌で自転車で通勤。当時はバブルな大人の価値観について行けず、仕事もミスばかり。
そのうえ、OL必須のガードル・ストッキング・パンプスで下半身を締め付け、毎日パソコンに向かってデスクワーク。気分転換にプールに通ったり、当時流行のスキー・スノーボード・ボディボードに挑戦しても、しょっちゅう捻挫・打撲。誘われた飲み会は断らず、ダイエットが流行れば一緒に参加し、社会に馴染もうと努力しましたが、少しずつ心に違和感が芽生え始めました。

社会人3年ほど過ぎた頃、何かがのしかかったような首~背中の痛み、肩のしびれ、目の奥の鈍痛、頭痛、吐き気、辛い月経前症候群…、体のあちこちに異変を感じるようになりました。
起床時にギックリ腰を起こし、その後、顎関節症で口が開かなくなり、右腕が挙がらなくなり、さらには、1か月以上も風邪が治らず、このままではいけないと思いながらも、仕事は続けていました。
やがて心の余裕もなくなり、先輩との人間関係が悪化。さらに体調が悪化し、負の連鎖。マッサージやアロマを試したり、カウンセリングも受けましたが、心も体もどんどん悪化し、「命がなくなってもいいかな…」と考えるようになり、辞表を提出しました。

「次の仕事は私と同じように悩んでいる人の、手助けになるような仕事がしたい」と思い、たまたま手に取ったのが整体専門学校のパンフレットでした。
自分の体もどうにかしたいし、こういう仕事もいいかなと考えていたときに、当時付き合っていた現在の夫がギックリ腰に!日曜日に開いている病院を探していたところ、たまたま目についたのが整骨院。私も背中が辛かったので施術を受けると、全身に何かが巡る!
人生初の感覚に包まれ、「整骨院で働きたい!」と思ったものの、当時はこの世界に徒弟制度の名残りがあることを知りませんでした。院長の話によると、施術者になるにはどこかの院長(師匠)に弟子入りして専門学校に通い、数年間修行して院長の許しを得てから開業するのが一般的。院長になんとか許しをいただき、柔道整復師を目指し、整骨院の事務を手伝いながら専門学校に行くことを決意。

事務や雑用をしながら技術を教えていただくのですが、体力勝負の仕事なので初めはついて行けません。女性には無理と患者さんに言われるのが悔しくて、続けているうちに次第に筋力が付き、専門学校では、ほとんど受け身だけでしたが、柔道の授業も体験。デスクワークをやっていた頃の私とはまるで別人。たくましい体になり、肩こり・腰痛などの不定愁訴も、以前ほどではなくなりました。

この頃から華奢な若い女性のお客さんが増えてきたのですが、当時、女性柔道整復師は少なく、国家資格取得後間もない私が、若い女性を担当する機会が多くなりました。
産前産後の腰痛や腱鞘炎で来院する方の多くが、体を上手く使えないことに気付き、危機感を抱くようになりました。それからは、「女性に特化した勉強がしたい」と、ずーっと考えていましたが、時間は過ぎていくばかり。

【妊活・妊娠】
資格取得後に結婚、7年目になっても子宝に恵まれず、気が付けば35歳。不妊治療を受けるための休みをもらうにも、男性ばかりの職場で一から説明するのは気が引け、悩んだ末、院長には「婦人科系の治療のため」と話し、退職しました。

不妊治療は噂どおりの辛い日々。それでも検査は興味深く、院内の子宝ヨガ教室も楽しく、これも良い体験だと考えました。
見えないゴールに漠然とした不安は付きまとい、通院するうちに同じ悩みを持つ者同士、自然と話をするようになったものの、仲良くならないように気を付けながらの通院はとても疲れました。隣人の妊娠が喜ばしいものとは限らないからです。
殿筋へのホルモン注射が痛すぎて、もう行きたくない!と思っていた矢先、妊娠が判明しました。すぐに悪阻が始まりましたが、当時住んでいた借家の周囲は雑草だらけで、どうしたものかと眺めているうちに思い出しました。
以前、自宅出産をした鍼灸師の友人が、「『筋力をつけなければ自宅出産はできない。産後は筋力が落ちて大変だから、下半身を鍛えて!』と、助産師さんに言われた」と、話していたことを。
私は病院でのお産ですが、万全の態勢で臨みたいので、運動になると思って草むしりをしたところ、土の香りが心地よく、悪阻が楽になり、なるべく毎日歩き、拭き掃除・草むしりのローテーションを心掛けました。

【骨盤ケアとの出会い】
母から「お腹を冷やさないよう、お腹が大きくなりすぎないよう、安産できるよう戌の日に晒しを巻きなさい」と言われ、疑問が沸きました。
整骨院では、晒し=固定。赤ちゃんがいて、どんどん大きくなるお腹を固定するのが良いとは思えませんでした。晒しを巻いて草むしり、拭き掃除をすると、お腹は圧迫され動きづらく、すぐに外しました。

お店に行き、試着可能なベルト十数本全て試しましたが、適度に支える理想のものがありません。
その時に見たウエストニッパー、ガードル、ブラジャーなどの硬さ、締め付けの強さに衝撃を受け、余計に体が悪くなると感じ、マタニティ業界に不信感を抱くようになりました。
ネットでトコちゃんベルトを発見し、説明を読んで納得はできたのですが、手に取ってみることができず、マタニティ業界に不信感を持っていたので購入まで進めずにいました。

それから図書館に行き、腹帯は中世の貴族が巻いていたことや、農民は巻いても簡素な帯程度だったことを知り、伸縮性のよい薄い腹巻を着用しました。
いつものローテーションを続けながら、特に体の不調もなく臨月となり、先に破水したものの、病院で3460gの男児を無事出産。

問題は産後でした。骨盤の緩みと筋力の低下にびっくり! 高齢女性の開いた骨盤や膝の変形を思い出し、何もしなければ同じようになるのでは? 産前のように戻るのだろうか? そんな不安ばかりが脳裏をよぎりました。
分娩台の上で上前腸骨棘と大転子の間に巻いてもらった晒しは、今思うと強すぎて、外した時に反動でグラッとなりました。それでも、骨盤の緩みを仙腸関節の捻挫や脱臼と置き換えて考えると、その位置を固定するのは良いように思い、1か月ほど続けました。

子どもが1歳になり、そろそろ仕事をしたいと思っていた矢先、東日本大震災が起き、大変なことが続きました。
その翌年、整骨院に再就職し、子どもを保育所に預けて働き始めたのですが、半年後、鬱状態になり、仕事も家事も手につかず…。医師からは「震災と慣れない育児と仕事で疲れたのでしょう、仕事を辞めて休んでください」と告げられました。

仕事を辞めて数か月後、友人の弟さんが近所に美容室を開業し、そこに来るお客様のマッサージを頼まれました。
まだ体調はすぐれず、自分に自信が持てず、施術をするのも申し訳ないと思いましたが、これを機に訪問整体を始めました。すると、お客様が喜んでくださるのを感じ、自分の好きな仕事をして現状から脱したいと思う気持ちが湧いてきました。
並行して、震災で乳幼児の遊び場所がなく困った経験から、赤ちゃんとママが集まれる場を提供したく、ベビーマッサージ教室を不定期ながら開催し始めました。

そんなある日、自宅でぼんやりネットを見ていると、仙台でメンテ“力”upセミナー開催の案内が目に止まりました。 しかも助産師じゃなくても受講OK!妊産婦さんを施術できるようになりたい! あの頃の疑問を解消したい! 誰かの役に立ちたい! という思いが沸き上がってきました。

セミナーで渡部信子先生のお話を聞き、目から鱗がポロポロ。私が感じていた疑問や違和感が解消され、体から余計な何かが抜けたような気がしました。
もっと早く受講していれば、自分も出会ったママ達も、もっと楽に過ごせたかもしれないと思い、それから立て続けにセミナーを受講。素敵な講師、熱心な受講者、楽しいお話と実習に毎回ワクワクし、トコちゃんベルトアドバイザー、トコヨガインストラクターと進みました。
それらのセミナーで知り合い、近所に住んでいることがわかった助産師の新沼映子さんと一緒に、トコヨガ教室を定期開催することになりました。また、東北の助産師さん達と連絡を取り合えるようになり、お陰様で私には対応できない妊産婦さんの引き継ぎや、相談ができるようになりました。

【これからのこと】
5年前、夫の実家で義母と同居を始めた頃から、義母の整形外科手術や内科入退院、家族の様々なことが続くようになりました。
息子の保育所卒業を機に、自宅の一室を整骨院として開業したのも束の間、入学したばかりの息子が登校を嫌がるようになりました。毎日隣の地区の友達の家まで15分間付き添ったり、小学校の現状を知りたくて小学校や児童館の絵本の読み聞かせボランティアに参加したりしながら、1年生も終わりに近づいた頃、付き添いは終わりました。

小学校では、子ども達は相変わらず体育座り、椅子には仙骨座り、机と椅子の高さが体に合っている子は少なく、長く座ると辛いだろうな…と、胸が痛みます。
若い女性も、じーっと動かない生活を続けている方が増えているので、脂肪で柔らかそうに見えても、骨も筋肉も細く、筋肉の一部が硬すぎて、関節が緩いか硬すぎる傾向があります。

義母は若い頃からのリウマチ、その薬の副作用で、筋力低下、靱帯の緩み、関節変形、骨粗鬆症があり、骨はもろく、よく脱臼・骨折し、先日も整形外科手術を受けました。
現代の女性が高齢になるにつれ、義母と同じような症状で悩む方が増えるのではないかと心配です。義母は「若い頃は痛いところがあっても、忙しいからほったらかしていた。今頃になって後悔しても遅い。気が付いたら早く対処するべき」と話しています。
高齢になっても骨折することなく、自分の足で歩ける女性を増やすために、なんとか頑張らなくてはと焦ります。

【おわりに】
中高生の頃、人との距離の取り方が分からなくて集団生活に馴染めず、生きづらさを感じるようになったのは、自分の性格のせいだと考えていましたが、今から数年前ADHDの傾向があることがわかりました。
自分が辛いときでも、諸先輩方やお客様、友人や家族から様々な学ぶ機会をいただき、子どもを授かったことで骨盤ケアを学ぶようになり、皆様と繋がることができました。お陰さまで、自分自身の成長を、少しばかり感じられるようになりました。

すぐにやらなければならない課題や、やりたいことは山積み。
1)筋力・骨密度を増やすための負荷をかけた体操を取り入れ、骨盤ケア&トコヨガ+“貯骨・貯筋体操”の企画。
2)トコヨガの参加者の殆どは共働き世帯の妊娠後期~産後約1年の方なので、仕事復帰に伴い教室を卒業。そのため、参加者の継続、新規集客が課題。
3)子ども達のために、小学校での10分間の絵本の読み聞かせ時間の中で、姿勢についてのアクションを起こす。
4)その他、親子マッサージを通じて心と体を守る活動や、災害・緊急時の心のケア、子どもの足と靴のことなど、いろいろ。

なかなか思うように仕事ができない中でも、構想・妄想だけは膨らみます。でも、今は焦らず、お一人お一人に真摯に向き合い、笑顔になってお帰りいただくことが目標です。

仙台は転勤族や里帰り出産が多い土地柄、私が担当するお客様が県外に移動することも多いので、移動先にも骨盤ケアを実施している施設、アドバイザーがいることをお伝えすると安心されます。
女性と子どものため、これからも学びを怠らず、心身を鍛え、骨盤ケアを学ぶ全国の皆様と力を合わせて、信念を持って地道に働き続けていきます。
そうすればきっと、もう少し成長した私に出会える気がします。