埼玉県の医院勤務助産師 落合 萌子さんのコラム
今も活き続ける青年海外協力隊の経験
【はじめに】
埼玉県所沢市にある松田母子クリニックに勤めている落合萌子と申します。青年海外協力隊で知り合った友人からの不思議なご縁でクリニックを紹介して頂き、現在に至っています。
アフリカでの協力隊の経験から、現在もセミナーに通い続けている理由をお伝えしたいと思います。
【助産師を目指したきっかけから参加まで】
中学3年生のある授業で映像を見る時間がありました。そこには貧困でやせ細った女性と子供が、仮設テントで治療を受けるために大勢集まっていました。今にも命の灯が消えそうな子どもを女性が抱っこしていた姿は、今でも鮮明に頭に焼き付いています。
中学生の私は世界の広さを知り、「なんて私は豊かな生活をしているのだろう」と目頭が熱くなり、「自分に何ができるのだろう?」と掻き立てられました。医療は国境を越えてできる仕事だと映像を見て分かったため、その授業が終わった時には看護師になるという夢を抱いていました。
看護学生になってからも、頭の片隅に当時の映像が残っており、謎を紐解くように調べていました。そんな中、助産師という資格を持っていると、貧困の中で弱い立場の女性や子どもを守るための国際協力活動の幅が広がることを知りました。それに加えて、母性看護の実習が何よりも楽しかった経験から、迷うことなく助産師の資格が取れる大学へ編入することを決めました。
大学で国際協力の授業があったり、協力隊経験者の助産師さんが研究担当の先生であったりと、非常に恵まれた環境で学びの深い2年間を過ごしました。都内の大学病院へ勤め始め、日々の勤務の中でも夢を持ち続け、4年間の勤務を終えて青年海外協力隊へ参加することになりました。
【青年海外協力隊の経験で得たもの】
私が派遣された国は、西アフリカにあるセネガルという国でした。派遣場所は首都から車で8時間の地方都市で、市場の近くにある県立病院が勤務地でした。
協力隊員は医療行為が行えないため、主に保健指導や業務改善、スタッフへの指導などが主な活動です。ところが、他の国から来た得体の知れない私の話なんて、誰も聞いてくれるわけがありません。プライドを捨て、自分を見失わないように気持ちを奮い立たせ、全てゼロからスタートしました。
この国の医療と助産師の仕事を一から目で見て質問し、「学ばせてほしい 教えてほしい」と声に出して頼み回るという必死の毎日を送りました。医師の数が圧倒的に足りないため、助産師の仕事は医師の仕事との兼務でした。外来での妊婦健診と診断をし、処方箋を書き、赤ちゃんを取り上げます。
入院中の患者さんの世話をするのは家族でした。しかし、入院している人はほとんどいません。悪阻か切迫早産で入院する人は月に1~2人いるのですが、すぐに退院してしまいます。妊婦健診の回数は4回なのに、0~1回が普通。しかも、どんな感染症を持っているかどうかも分からない人ばかりですから、分娩介助は感染の危険と隣り合わせでした。
現場で見たお産は、陣痛が来たら患者さんが家族と一緒に病院へ来て、進行がなければ敷地内を歩いていました。細い平らな診察台が分娩台の代わりで、出血受けに差し込み便器が使われていました。そこで一番驚いたのが、胎盤が出た後の出血がほぼ皆無!その後、本人が持ってきた古布を手で割いて即席のふんどしを作り、腰にあて、ベッドから降りて違う部屋に案内します。約1時間後には赤ちゃんを抱っこして歩いて帰ります。
その光景を見て私は勤めていた大学病院をふと思い出し、「どうしてあんなにも入院している人が多かったのだろう?」、「どうしてあちこち体の不調を訴える人が多かったのだろう?」、「日本とセネガルの違いはいったい何だろう?」と考えました。しかし、まだこの時は解決する知識がなく、ただ漠然と疑問を抱いているだけでした。
現地で友人になった方の家に呼ばれる機会が何度かあり、日常の生活を間近で見ることができました。
家事は主に女性の仕事です。冷蔵庫がないので市場へ毎日、大家族分の食料を買いに行き、重い荷物を頭に乗せて絶妙なバランスを取りながらスタスタと歩きます。台所はないので料理ができ上がるまでの約2時間、中庭で座ったり立ったりを繰り返し、食器を洗うのにも何度も水がめと洗い場を行き来します。
小さい赤ちゃんがいるお母さんは、ごく当たり前にお乳を飲ませ、それ以外のお世話は上の子ども達にしてもらって、同様に働きます。大人も子どもも、みんな抱っこがとても上手でした。
赤ちゃんを連れて歩くときは、前かがみに腰を曲げて赤ちゃんを背中に乗せ、大きな1枚布を被せて、ピッタリと胸の前で2か所結びます。布1枚でおんぶ紐の代わりになることを知りました。
ここでは女性に会う機会が圧倒的に多かったため、次第にその精神的なたくましさとカッコ良さ、細身ながら筋肉質な体型、シャキッとした姿勢に目を奪われていました。
砂ぼこりが家中に入ってくるため、私も毎朝、掃き掃除や手で洗濯をし、平均気温30~40度の暑い中でも平気で1時間以上歩いていました。ビッショリ汗をかく日々が続く中、長年の便秘や肩凝りから解放され、「体質が変わった」と感じるようになりました。
1年近く経つとセネガルの人々の暮らしが徐々に分かるようになり、少しずつこの土地に慣れてきたと感じ始めたと同時に、「国際協力をしたい」という夢は、少しずつ色褪せていることに気付きました。
目の前に患者さんがいるにもかかわらず見学しかさせてもらえないもどかしさ…。「患者さんと話したい」「私も働きたい」という、今までになかった感情が大きく膨らんでいたのです。
自分のステップアップとして飛び込んだ協力隊で、まさか夢が覆されるなんて…、思いもしなかった現実に心底悩みました。しかし段々と「ここに来たから自分の本心が見えたのだ」と思うようになった自分に気づきました。
ちょうどその頃、エボラ出血熱感染の拡大により活動拠点の変更を余儀なくされ、外国語の壁を高く感じたことなども相まって、通常2年の任期半ば、1年3ヶ月で帰国することになりました。
帰りの飛行機では1人っきり。多くの優しい人達との出会い、セネガルの女性と子ども達、新しく見いだせた夢…、これ以上ない経験を味わえたこと、一生忘れられないほど心を動かされた時間だったと、全てのことに感謝しながら日本へ戻って来ました。
【帰国、骨盤ケアとの出会い】
帰国後に就職したクリニックでは、尿漏れや痔などシモのトラブルを訴える人の多いこと!「どうして?」と、あの時に抱いた疑問が再燃してきました。
そこで目に飛び込んできたのがメンテ“力”upセミナーでした。筋肉・靭帯の講義を聞いたときに、セネガルでのできごとの全てがつながり、胸のつかえが取れた思いでした。
医療体制が十分に整っていない中でも、女性はお産に耐えられる体を、子どもの時から作っているんだと合点がいきました。
帰国後は首・肩・腰の不調が復活し、まるで背中に鉛を担いでいるような私の体を、心地よく解きほぐしてくれる操体法に感動(*^^*)!!渡部信子先生から施術をしてもらった後は、羽根が生えたように軽くなったことを体験し、カイロプラクティックの素晴らしさを実感しました。
のめり込むようにトコ企画やトコ・カイロプラクティック学院のセミナーを次々と受講。学べば学ぶほど妊産褥・赤ちゃんの診方が変わり、仕事が面白くなりました。女性の体作りが、胎児姿勢、お産の進行、産後までつながっているということを知り、次第に、確信へと変わっていきました。
【臨床での活用】
セミナーで実習を重ねる内に、骨格や筋肉を触診する面白さに魅了され、臨床でも妊産婦さん達の骨盤を触診し、操体法を指導し、評価することを繰り返す毎日に変わりました。
回旋異常でお産が進まず、帝王切開が決まりそうだった産婦さんに、お尻フリフリ体操を伝えたところ、赤ちゃんが上手く回旋し帝王切開を間逃れたときは、「学びに行って本当に良かった」と心の底から喜びが湧きあがってきました。
産後に「骨盤がグラグラする」との訴えがあった方に、骨盤輪支持と操体法を伝えたところ、「あなたに妊娠中にお会いしたかった」と呟かれたこともありました。
でも一方では、これまでのケアでは症状の改善がみられない人も増えてきました。体の不調が複雑すぎて、「何から手を付けていけばいいのか?」と悩むことも…(-"-;さらに、セミナー時の実習で、自分の手の圧が強いことにも気づかされ、「これでは患者さんの体を傷めてしまうかもしれない」と考えるようになりました。
【これからの私の目標】
お産が始まってから骨盤ケアをしていたのでは、間に合わないケースも増加しているため、妊娠中からの骨盤ケアが必要です。なので、数年以内には今のクリニックで骨盤ケア教室を開けるように、地盤を固めていきたいと考えています。
そして、不調の原因をすばやく見つけ、母体を診てお産を予測したり、捻じれ傾いて生まれて来た赤ちゃんへのケアを、サラリとできる助産師になりたいです。と同時に、私自身がいつまでも元気で働けるよう、ソフトで快適な触診やケアができるよう、体作りに励まないといけませんね(^0^)
目標に向かって具体的な行動として、引き続きセミナーに参加し、筋骨格や血管・神経の走行について勉強し“科学的に考えられる力”“なおせる力”を養っていきたいです。今の私にとっては非常に高い目標ですが、高い目標だからこそチャレンジしたいのです。
いつかまた国際協力に興味が湧いてくるかもしれませんが、今は目の前にいる妊産婦さんや赤ちゃんから目を離すことができません。
セネガルに行かなければ、女性の体力や骨盤について、何も考えないままの私だったことでしょうね(~_~;)セネガルで目の当たりにした出産と、現地での生活体験が、今も私の中で活き続けていることは確かです。
最後に、帰国後に学び始めた骨盤ケアは、クライアントに対する知識を得るだけではなく、助産師の仕事の深さと面白さ、自分の体と心に向き合う楽しさを教えてくれました。