【はじめに】
私たち永井人美と山下明美は徳島県に在住し、骨盤ケアを広め、徳島県が元気なお母ちゃんと赤ちゃんでいっぱいになることを夢に、日々チャレンジしています。まずは、2人の半生を少し紹介いたします。
・・・・・・永井人美の半生・・・・・・
【看護婦に】
私は阿波踊りで知られる徳島市の南に位置する小松島という小さな町で育ちました。つい先日急逝された俳優の大杉漣さんは、唯一地元出身の著名人でしたのでとても残念です。
看護婦を目指すようになったのは、私が高校生の時、母親が入院した時に付き添いをしたことがきっかけでした。それと、もうひとつ理由がありました。
それは、私は人前で話すことが幼い頃から苦手だったのですが、あえて人に接する看護婦になることで、苦手を克服できるのではと思ったからです。
1979 年に看護婦資格を取得。その後約16年間赤十字病院に勤務し、1985年結婚してからの7年間は京都で暮らしていました。
【助産師に】
看護学生時代に見学した難産があまりにも衝撃的で、2回のお産とも自然なお産ができる助産院を選び、満足のいくお産ができました。
その時に出会った助産師さんの仕事を見て、「助産師になりたい!」と熱いものが込み上げてきました。
子どもが3歳と1歳のときに病院を退職し、徳島にU ターンして 1993年 徳島大学医療技術短期大学助産学専攻科に入学、資格を取得しました。
その後、阿南共栄病院で助産師として10年間勤務しました。病院ではトコちゃんベルトの導入、マタニティヨーガの教室の担当、母児同室などの取り組みもでき、楽しく充実した日々を送りました。
【開業】
助産師を目指したときから開業志望だったため、2005年に病院退職を決断。保健センターで1年半非常勤務をした後、 50歳で開業しました。来所と訪問にて最初は乳房ケアから始め、続いて新生児訪問・地域の産前教室・育児相談などを増やしていきました。
当初は重症の腰痛・頑固な肩こりなどに、お手上げ状態になってしまうこともあり、「体を整える高いレベルのスキルが必要」と思うようになりました。
ちょうどその頃、2012年メンテ“力”upセミナーに出会い受講しました。その後も「体を整える手段や理論をしっかり学びたい」と、トコカイロプラクティック学院で数々のセミナーを受講しました。
少しずつですが地域での認知度も広まり、リピーターや紹介の方も増えてきました。
地域の方々にもっと満足してもらえる技術を提供するためにも、自分自身の体作りが大切であると感じています。体作りと技術力アップに精進しながら、残りの人生を歩んでまいります。
・・・・・・山下明美の半生・・・・・・
【幼少時代】
私は徳島で 1 番高い山、剣山の麓の山中で生まれ育ちました。今でこそ車で行けますが、その頃は車が通る道路は自宅近くまでは開通していなくて、途中で車から降りて坂を登ること20-30 分!
遊びといえば木登り、沢でのカニ取りなど、山を駆けずり回り、今なら「危ないからやめなさい!」と言われるような遊びをしていました。
こんなにやんちゃな幼少時代とは反対に、大人になるにつれて引っ込み思案になっていきましたが、今でも実家に行くと「この木を登っていたなぁ」と懐かしく思い出します。
【どんな人に会い何を選ぶかで人生は決まる】
20 代の初めは大人しく、何をするにしても自信がなく、自分から何かにチャレンジするような私ではありませんでした。
ところが、専門学校時代、ブラジルからの留学生との出会いが、私に夢というものを抱かせてくれました。 彼女は「ブラジルで助産院を開きたい。」と語りながらキラキラ輝いていました。
そんな彼女を見て、私の中の夢という認識が「夢は寝てみるもの」から「夢は叶えるもの」に変わっていきました。
彼女との出会いと並行して、メンターと言える人と出会いました。意見が言えなかった(色で言うとグレーだった) 私は、
・「白黒はっきりさせなければならないこともある」
・「考え方次第で人生は変わる」
この2つを教えてもらい、そこから何事にもポジティブで、何事にもチャレンジする私になっていきました。
私の考え方を変えてくれた尊敬する人との出会いでした。
ブラジルの彼女の言葉がいつの間にか私の心の奥底まで入り込み、「家庭に帰ったママや赤ちゃんのために何かしたい!」と切望するようになり、それが、夢になっていきました。
しかし、「いつかは…」と思いつつ、現実問題として実行に移せないまま、勤務助産師を 22 年間続けました。
【夢実現への決断】
病院勤めも20 年を過ぎると、管理職の立場にならざるを得ず、したい仕事はできず、葛藤は増すばかり…。
それまで楽しかった病院勤務が苦痛になり「こんなはずじゃなかった」と思い悩み続けていたある日のこと、あるできごとをきっかけに、退職を決意。抱き続けた夢実現へと邁進し始めていました。
長年「準備万端となってから退職するもの」と思っていたのに、「夢ってこんな形で実現することもあるんやなぁ?」と気づいた瞬間でした。
思い続ければ夢は叶う。自分からというより、神の手で背中を押してもらった感じでした。
【骨盤ケアと永井人美さんとの出会い】
何の準備もせず退職を決断したものの、地域でやっていくには助産師としての“売り”がないことに気づきました。
その時、脳裏をかすめたのが骨盤ケアでした。勤務助産師時代、骨盤ケアの研修に参加したときに「これからはこれだ!」と直感したことを思い出し、本格的にセミナーに通い始めました。
そこで出会ったのが永井さん! 実は、永井さんとはある大学の助産実習指導員として顔見知り程度の仲だったですが、セミナー会場で、お互いに「 私と同じ匂いがする!」と感動。
そして、2人で学生実習指導員として、これから助産師として羽ばたく学生達に「骨盤ケアが助産に不可欠であることを伝えていこう!」と、意気投合してしまいました。
その後、徳島における骨盤ケアの活動母体となる「骨盤 midwives - 徳島で活動する骨盤ケア助産師 - 」結成となりました。
【OHANA 助産院開設】
“OHANA”はハワイ語で“家族・仲間。「OHANA を利用していただく方と、家族であり仲間でありたい」と思いを込め命名しました。
OHANA は「骨盤ケア・食育・メンタル」の 3つを柱に、皆さんにとって「ほっとできる便利な止まり木」でありたいと願っています。
私が住んでいる徳島県西部の山間部は、ヘルスリテラシーの高い女性はまだまだ少ないのが現状です。
「妊娠中に骨盤ケアをすることは、貴女のためだけではなく、子どもを丈夫な体で生んであげるために大切なのよ」と伝えながら、これから出会う皆さんのパワーをいただきながら、次へ進んでいきたいです。
・・・・・・2人のあゆみ・・・・・・
【「骨盤 midwives -徳島で活動する骨盤ケア助産師」結成】
私 永井が「骨盤ケアを県全域に広げたい。情報発信の場を設けたい」と思っていたところに、青葉からコンタクトがありました。
「願ってもないチャンス!」と、2013 年当時、県南部を本拠地にしていた私と、西部・中部で、骨盤ケアを手掛けている 3 人で相談し「骨盤 midwives -徳島で活動する骨盤ケア助産師 -」を結成。
最初はコミュニティセンターを借り、 参加者3~6 人のトコちゃんの骨盤ケア教室がスタートしました。
【悪戦苦闘しながらの出発】
徳島では骨盤ケアについてまだまだ知られていない状況だったため、病院や保健センターに教室の資料を送付したり、訪問して説明するなどを続けました。
教室に参加しての感想や分娩時の状況を聞いて、自分たちのやり方を見直し、試行錯誤しました。回数を重ねていくうちに賛同者も現れ、場所を提供してもらえることもありました。
また、トコちゃんの骨盤ケア教室1回の受講では、充分伝えきれないことがあると感じ、後期教室 (分娩前のケア、産後のケア、まるまる育児) を追加しました。
2015年 原田美佐子さんの伝手により、ある婦人科クリニックから「骨盤ケアを取り入れたい」との情熱的な依頼を受け、骨盤 midwives を含む 4 人が外部講師を担当することになりました。
これは今も続いています。詳しくはこちらに書かれていますので、ぜひご覧ください。
⇒
https://tocokikaku.com/column/column.php?CLM_NO=292
【助産院でも一緒に】
永井・山下の2人は、骨盤ケア教室・助産実習指導のみならず、香川県の助産院でも一緒です。
2012年から永井、翌年から山下が非常勤で妊娠・分娩・産後のケアに当たっています。
継続的ケアができるため、学んだスキルの全てを活かすことができる絶好の機会であり、最もやりがいのある仕事となっています。
【これからの夢】
「徳島のそれぞれの地域で、妊活中~妊娠・分娩・産後の骨盤ケア 、ベビーケア・乳房ケアなどの教室を充実させ、お互いに手を取り合って徳島の母子ケアを充実させていけたらいいな~」と夢見ながら、少しずつ歩み続けている私達です。