東京池袋の整体師 簗田 京 先生のコラム
最高齢トコちゃんベルトアドバイザーの夢

 
【生い立ち】
 はじめまして、東京池袋でキョウコプロポーションを開いている整体師 簗田 京(やなだ きょう)と申します。教員の父と産婆の母との間に1940 (昭和15) 年5月5日、北海道の十勝で5人きょうだいの3番目として生まれました。
 父の転勤に伴って引っ越しを繰り返し、私が6歳の時に双子の妹が生まれました。双子の育児に手がかかったせいでしょうか、オテンバの私は父が校長を務める小学校へ1年早く入学、6年生を2回やりました。今ではあり得ませんね。

【看護婦を目指した動機】
 小学校1年の時、父は私の6歳年上の兄を医者にさせようと、札幌の親戚の家に預けました。姉は当時大流行の結核に罹り、母の保護も厚かった一方、私は元気そのもの。家事などをさせられてばかりの私は、小学校1年にして既に、「1日も早く家を出て独り立ちしたい。そのためには“手に職”をつけなければ…、医者はお金がかかるし勉強も難しい。教師にはなりたくないし、看護婦がいいかも?」と考えていました。

【看護婦にならずに美容師に!?】
 高校3年の4月に家庭の事情により札幌に引っ越し、高校も編入して卒業。大学へは行かず(行けず?)念願の看護婦になるために、国立札幌病院看護学校へ入学。学費・寮費全て無料で、就職の縛りもなく、素晴らしい環境でした。その時の経験がその後の人生に大きく影響し、いろいろな困難にぶつかった時も押しつぶされることなく、生きる力の糧になったと感謝しています。
 にもかかわらず、看護婦にはならず、実家の経済を助けるべく、美容師の道へと方向転換。1年先輩の妹と共に、実家で美容室を開き、その後、結婚しました。

【出産】
 美容師をしながら27歳で長女(松尾織絵)を出産、4年後に次女を出産し、母の育児援助を得ながら、2人とも溢れ出る母乳で育てました。生理痛も知らず、妊娠中のトラブルもなく、出産前日までずーっと働き、産科医に感心される程の安産でした。
 これは、小さな頃から野山を毎日駆け回わり、井戸の水汲み、洗濯、薪割り、煙突掃除…、中高時代は夏だけ自転車通学でしたが、冬は極寒の中を毎日往復17km程の道を歩いて通学した賜物と思えます。

【整体との出会い】
 家事・育児と美容師として働きすぎたせいか腰を痛め、近くの整形外科にかかったものの、ますます痛くなり歩くのもやっとの状態になってしまいました。遠方の別の整形外科で治療を受けたところかなり改善。しかし、満足できず思い切って近くの整体へ行ってみました。すると、劇的な効果にビックリ! 通いながら、しっかりと施術を観察し、自分でもできる方法を身につけました。
 間もなく妹は独自に美容室を開き、私は腰に不安があるため美容師をやめ、元々好きだった経理の道に進みました。税理士事務所に6年勤めた頃、姉が交通事故に遭い、今度は姉の整体院を手伝うこととなりました。
 そんな中「これから一生、誇りを持って続けられる仕事は…?」と考えて、整体の道に進むことを決意し、北海道治療師会に入会していろいろ学びました。看護学校で学んだことが役に立ったことは言うまでもありません。その後、姉は東京へ進出、渋谷で店を出し順調にお客様が増えていました。しかし、私は東京へ行くわけにもいかず、経理の仕事に戻りました。

【東京へ移動、開業】
 長女が大学1年、次女が中学3年生の時、私も上京、姉の仕事を手伝うことにしました。ゆくゆくは札幌で開業するつもりで上京したのに、渋谷の交差点の人の波を見た途端、「東京で頑張るぞ!」と決心。怖いもの知らずとはこのことですね。
 上京後1年半、1988年4月、池袋で「O脚・X脚矯正」の店を開きましました。お蔭様で店は順調そのもので、間もなく3人のスタッフを採用しました。ところが好事魔多しと言いますが、採用したその時、国立がんセンターで絨毛癌との宣告を受けました。子宮卵巣全摘術を受け、1ヶ月半で退院した後は、幸い何事もなく、現在まで元気に働いています。
 手術後も店は順調で、当時はO脚・X脚矯正をする店は他には2店しかありませんでした。珍しさもあり、NHKをはじめ全てのテレビ局が取り上げてくれました。ラジオ局の取材も何局かあり、私の名で出版した本が4冊、当店監修のムックが1冊、雑誌の取材は数え切れないほど…、本当に感謝以外の言葉がありません。

【長女 松尾 織絵】
 私が手術を受ける1年前、織絵は大学の勉強に行き詰まりを感じ、「じっくり本を読みたい」と、1年間休学して上京していたのですが、私の店が大変忙しく、娘は仕事を手伝っていました。1年後いったん復学したものの、すぐ後に私の入院・手術のため、さらに1年間休学、合計2年間店を手伝ってくれました。
 その後、復学して4年生になり、高校の国語の教員採用試験に受かったのですが、私の店があまりに忙しく「手伝ってほしい」と伝えて、あとは娘の意志に任せました。結局、娘は私の店に就職してくれました。
 大学は文学部でしたから、当然のことながら医学・医療の知識はありません。その年に「東京医療専門学校」へ入学、鍼灸・あん摩・マッサージ・指圧を学びながら店で働きました。その後、鍼灸専門学校の教員課程にも2年間通い、母校の非常勤講師を7年勤めました。その間に広がった人脈は得難いものがあったと思います。
 織絵は「O脚・X脚矯正は、単に脚のみにアプローチするのではなく、人間の土台である足が大切で、それを包む靴にも注意すべき」と考え、足底板の会社の方のお世話になり、アメリカで足専門医の講義を受けたりしました。今は幼児~成人対象のシューフィッターとして、講習会も開いています。
 今は私と娘の2人でやっている店も、以前は10人以上のスタッフを抱えているときもありました。その頃はスタッフの勉強会など、全てを娘がしてくれていました。
 O脚矯正は脚だけにアプローチするのではなく、土台である足も骨盤も大切な部分で、全身を診て矯正していかなくてはなりません。お客様から「脚の形が綺麗になった」と喜ばれるのは当然として、「腰痛・頭痛・生理痛が楽になった」のみならず、「不妊治療を受けても駄目だったのに妊娠した」「結婚後13年なのに授かりました」などの報告は、感動そのものでした。
その後、O脚矯正店が増加した影響もあり、お客様は徐々に減り、スタッフも辞めたり独立したりして、だんだんお店の規模を縮小していきました。

【トコちゃんベルト・骨盤ケア・まるまる育児との出会い】         
 娘 織絵が妊娠したとき、トコちゃんベルトを知り「これはO脚矯正にも効果がある!」と言うので、早速当店のお客様にも取り入れたところ、とても好評でした。 孫は“まるまる育児”でよく寝て元気に育ち、娘はお店ではお客様にも“まるまる育児”を勧めるようになりました。
しかし「うまくできない、やり方がよくわからない」という声も聞いたため、娘は講座やスリングレッスン会などを行うようになりました。
 
詳しくは⇒https://tocokikaku.com/column/column.php?CLM_NO=180

 O脚矯正店として始まった当店ですが、こうして徐々にお母さんと赤ちゃんの来店が増え、今では半分以上を占めるようになりました。娘が産後のお母さんに骨盤ケアをしている間、私が子守をすることがあります。“まるまる育児”を教えるようになってからの赤ちゃんの方が、よく眠り、あまり泣かず、“まるまる育児”の素晴らしさを肌で感じています!

【最高齢のトコちゃんベルトアドバイザーとなり】
 トコちゃんベルトアドバイザーの資格制度ができたとき、いち早く娘が資格を取得。その後「私も資格が必要!」と思い、初めて受講に行った日に、東日本大震災が起きました。渡部先生や受講生の皆さんと高輪のセミナールームで夜を明かしたことは忘れられません。その後、試験に無事合格。当時71歳の私は最高齢のトコちゃんベルトアドバイザーとなりました。

【トコちゃんベルトには、ズレ防止アイテムが必要】
 トコちゃんベルト指導希望のお客様は、何らかの症状を訴えて来られる方が多く、骨盤の緩み・ゆがみを伴うO脚のお客様も多く見られます。
 せっかく正しい位置にベルトを着用しても、立ったり座ったりすることにより、ベルトがずれ上がることがよくあります。すると、ベルトが子宮や膀胱を圧迫して、逆効果になりかねません。
 また「ベルトを着けると気持ちが悪い」「痛い、苦しい」「持っているけれど使わない」「時々しか使えない」と訴える方がいます。そうならないために使用するのが、ズレ防止パーツ、 もしくは、先行発売中のトコサポートです。特にトコサポートは姿勢の改善に効果があり、肌にも優しいのでお勧めです。
 トコベル着用指導をはじめて間もなく、私はずれ防止パーツの重要性を感じ、ほとんどの方に併用を勧めていました。トコサポートが登場した時、渡部先生が「これからは、トコちゃんベルトにはトコサポートを併用することを標準としたい」とおっしゃったと記憶しているのですが、「私の感じていたことを、先生がおっしゃって下さった」と感じ、とても嬉しかったです。
 トコちゃんベルトを知っていたり、持っている方でも、ずれ防止パーツやトコサポートの存在は知らない人が多いと感じます。トコベル指導をなさる方に、もっともっと、ずれ防止パーツや、トコサポートの存在をアピールしてほしいと思います!

【これからの仕事、そして夢】
 先日、2度目のトコちゃんベルトアドバイザーの資格を更新し、これからまた3年間はアドバイザーとして働けます。今まで協力してくれた娘のためにも、これからもできる限り働きたいと考えています。娘は骨盤ケア・まるまる育児・足と靴の相談などで忙しく、現在トコベル指導は私が担当しています。“おとなまき”も徐々に普及して来たので、私もできるようになりたいと思っています。
 あと3年で東京オリンピック、孫は高校生になり私は80歳。それまで働きたいと思っていますが、ボケずに元気なら、またトコベルアドバイザー更新に挑戦するかも!? それができたら、その時は 終の棲家 札幌で、トコちゃんベルトと“おとなまき”を教えたい。それが私の夢です。