長野県の勤務助産師 大谷 玲子さんのコラム
助産師さんのお陰で母になれた小娘=私は、助産師になった

 
【はじめに】
 長野県松本市で助産師をしている大谷(おおや)玲子と申します。総合病院の産婦人科病棟で夜勤専門スタッフとして働いています。2016年2月に初めてメンテ“力”upセミナーを受講し、8月から東京でベーシックセミナーを受講しています。新参者の私がこの由緒ある通信のコラムを書かせて頂くことになりました。
 正直、「私なんかが書いていいのだろうか?」という思いは拭えませんが、渡部信子先生に「次、大谷さん書いてな (^_^) 」と依頼されたことを光栄と捉え、四苦八苦しながらパソコンに向かっている次第です。

【おいたち】
 私は長野県飯山市という豪雪地帯で、自営業を営む両親の長女として生を受けました。母は幼い頃に腎臓を患い、「子どもは産めないかも」と言われていたようです。実際、私の上に1人いたのですが、妊娠中に母の体調が悪化し、泣く泣く中絶したと聞きました。私を産む際も、死を覚悟しての出産だったようです。そんな訳で、私の胎児環境は決して良いものではなかったと思われますが、大きな病気をすることもなく、元気にスクスクと育ちました。
 「子どもは産めないかも」と言われていた母ですが、私の下に弟と妹が生まれ、3人姉弟の長女として夏は野山を駆け回り、冬はスキーと雪降ろしをして育ちました。でも、今思えば、私は小学生の頃から頑固な便秘と肩凝りに悩まされていました。

【一生独身と思われていた私が?!】
 私は幼い頃から「手に職をつけ、自立した女性になりたい」「雪の降らない都会で暮らしたい」と切に願っていました。中学を卒業すると、ちょっとだけ都会の長野市にある「国立長野高専電子情報工学科」に進学し、技術者になるべく勉学に励みました。
 両親も友人も、私は一生独身でバリバリのキャリアウーマンとして生きていくものと思っていたようです。私自身、自分は結婚・子育てには向かないと思っていました。
 そんな私が8歳年上の男性と出会い、恋をしました。弱冠20歳の小娘が「この人と結婚したい。この人の子どもが欲しい」と思ったのです。恋は盲目ですね。私は、今で言う“できちゃった婚”を目論み、見事妊娠! 大好きな彼と結婚することができたのです。

【妊娠・出産~助産師を目指して】
 妊娠中は腰痛とお腹の張りに悩まされ、張り止めを内服しながら仕事を続けました。無知とは怖いものです。腰痛もお腹の張りも、「こんなもんなのかな?」と深く考えず、トラブルとも思わず過ごしていました。
 出産はスピード出産で、病院に着いてわずか5分で出産!! よく分娩台に間に合ったと思います。夫は立ち会い希望だったのですが、車を駐車場に入れてる間に生まれてしまい、立ち会いできませんでした。

 お産はスムーズでしたが、そのあとが大変。産んで終わりではないんですね。まず股関節が痛くて歩けない。おっぱいは張ってガチガチ。自分の体が辛すぎて、赤ちゃんの世話どころではないんです。
 今までは自分の努力でなんとかなってきたけど、子育ては自分と赤ちゃん。二人三脚なんですね。正直メチャクチャしんどかったです。おむつ交換も授乳も、赤ちゃんに触れるのさえ初めて。毎日が手探りでした。
 でもそんな小娘も、助産師さんのお陰でちょっとずつ母になることができました。女性は1人の人間を産み出す。そのパワーは計り知れません。そしてその女性をサポートしているのが助産師です。「女性としてこんな素晴らしい職業はない! 私も助産師になりたい!」。助産師大谷玲子の蕾が生まれたのはこのときでした。

【子育て~看護・助産学生】
 21歳で長男を産んだ、助産師を夢見る若き母。「まずは子どもを3人産んで、自身の子育て経験を活かして助産師を目指す!」と決めました。24歳で長女、25歳で次男に恵まれ、次男が小学校に入学した31歳で、私も3年制の看護学校に入学。
 看護学校時代は時間との戦いでした。子どもと21時に寝て、深夜1時起床で実習記録をつける日々。「60歳になって、あのとき頑張ればよかったと後悔したくない」と踏ん張りました。34歳で私立の助産師学校に入学。泊まりの実習もあるため、夫の実家に助けて貰いながら卒業。卒業式には、忙しい夫に代わり長男が出席してくれました。

【実際の現場~トコちゃんベルトとの出会い】
 念願の助産師になり、今の病院に就職。夢みた助産師の仕事でしたが、想像以上にキツイ仕事でした。微弱陣痛で進まないお産。生まれた赤ちゃんはおっぱいに吸い付けない。お母さんは体がしんどくて育児どころではない。そして、仕事を終えると、心身ともにクタクタになりながらも、心の片隅で「このままじゃいけない! なんとかしなきゃ!」と、もう一人の私があがいていました。

 トコちゃんベルトのことは以前から知っていて、興味もありました。でも松本地域には、トコちゃんベルトを指導してくれる病院・助産院はありません。「自分がやるしかない!」そう思ってセミナーに飛び込んだのは、就職から6年近くの年月がたっていました。
 セミナーを受ければ受けるほど、骨盤ケアの大切さに気づかされ、「自分の体は、本当はこんなにガタガタだったんだ」ということも分かりました。渡部信子先生に首の後ろを診ていただき、「大谷さんの赤ちゃんは小さかったやろ? でも、おっぱいは出すぎるくらい出たやろ?」と言われたときは本当にビックリしました。

【ベーシックセミナー実践】
 私はセミナーで習ったことは、すぐに病院で実践しています。そんな私のあだ名は「アトニン」。日勤で停滞していたお産も、私が受け持つと1~2時間で生まれるからです。先日も、入院後そのまま分娩室直行のお産があったのですが、総出血量は200g、その前の日も同様のお産で総出血量は90gでした。私が「ネコの操体法」「お尻フリフリ体操」など、骨盤ケアをしていることは、まだスタッフには秘密です。
 そして、おひなまきにした赤ちゃんはスヤスヤよく寝ています。それを見たお母さん達には「魔法みたいですね~♪」と驚かれます。骨盤ケアだけではなく、もっと赤ちゃんのケアも学びたいという思いが高まり、12月の“まるまる育児アドバイザー養成セミナー”も受講する予定です。子ども達はすでに大きくなったとはいえ、主婦もしながらのセミナー通いは大変です。「高校新卒からストレートで助産師になっていたらなあー」と、若い独身助産師を羨む気持ちはありますが、自分にできることを精一杯頑張りたいと思います。

【これからの夢】
 今の若い女性は、1週間の入院期間だけで、育児・授乳手技の獲得や、自身の体の回復を望むのは難しくなっています。病院ではしっかりした「骨盤ケア」も「まるまる育児」の指導もしていないし、赤ちゃんのお世話も通り一遍。みんな自宅に帰ってからどうしたらいいのか分からないのでしょうね、退院後の電話相談がやたらと多いことから、悪戦苦闘のお母さん達の様子が目に浮かんできます。
 これからの私の夢は「産後ケア助産院」を開業することです。まずは、総合ベーシックセミナーに合格するべく日々精進。女性と赤ちゃんに優しい“魔女のような助産師 大谷玲子”を開花させられるよう頑張ります。