神奈川県の勤務助産師 小泉 麻美子さんのコラム
夢の変遷から助産師に、妊娠・体調不良から骨盤ケアに

 
【はじめに】
 私は神奈川県内の産婦人科クリニックにパート助産師として働く小泉麻美子と申します。現在は小学4年生女子、年長男児、もうすぐ2歳になる男児の3人のママでもあります。夫は観光地で伝統工芸品を扱うお店を経営していますが、夫の理解もあり家業を手伝うことなく、大好きな助産師業をさせて頂いています。また、夫や子どもたちの協力もあり、夜勤もしながらハードスケジュールの充実した日々を過ごしております。

【将来の夢の変遷】
 高校時代の私の夢は養護教諭になることでした。進路相談で、「看護師の資格をとっておくように」と勧められ、看護職に興味はないまま“夢の通過点”という気持ちで医療短大へ進学しました。正直、看護学の授業は苦痛でした。「どんな看護師になりたいか?」「看護とは?」と聞かれても何も浮かばず、周りには看護職を目指してキラキラ輝く同級生。「みんな凄いわー」と他人事の様に過ごしていました。
 最終学年、最初の実習が産婦人科でした。ここで初めて助産師という職業を知りました。助産師として働く実習指導者の姿をみて、「私もこの職業がしたい! 助産師になりたい!」と、2週間の実習で私の夢が変わりました。短大卒業後、新設校だった千葉の亀田医療技術専門学校へ進学。20名中、新卒は4名という環境の中で助産師を目指しました。

【就職してから】
 卒業後は医療短大付属の大学病院へ就職。医療短大、助産師学校共に1期生、新卒で就職した大学病院もオープニングスタッフと、すべて新しい所を渡り歩いていました。就職後、私の興味の先は妊婦看護でした。同僚や先輩の中には骨盤ケアをすでに学びに行っていた人もいましたが、まだ自分の中には骨盤ケアまで意識が回っていませんでした。
 大学病院に入院する妊婦はハイリスクであり、入院は長期に及んでいました。安静、点滴管理で妊娠継続を目標としていました。しかし、実際に分娩した後は育児がすぐに始まり、褥婦は慌ただしく育児技術獲得に向け日々を過ごし、数日後には退院して行きました。
 長期安静臥床入院にて筋力は落ち、思い描いていたマタニティライフは送れず、体力回復していないままハードな育児がスタートしていく。そんな現実を目の当たりにし、「健児を得るために必要な入院治療。妊娠継続が一番」とだけ考えて看護を行っていた自分に気付きました。「その先を見据えた看護ができていただろうか?」「健康な妊婦はいったいどのようなマタニティライフを送っているのだろうか? 楽しく過ごしているのだろうか?」
 そんな疑問と抱き行き詰まり感に押しつぶされそうになっていたあるとき、看護学生時代にマタニティビクスの実習をしたことを思い出しました。「マタニティビクスの資格を取りたい!」。そう思ったら「忙しい大学病院に働きながらでは、私には無理だ!」と、マタニティビクスの資格をとるべく、転職しました。いろんな環境の変化に戸惑う毎日でしたが、「目標はマタニティビクス! 健康で元気にマタニティライフを謳歌する妊婦さんに出会いたい!」との夢を見つけ、嬉々とした日々を過ごしていました。

【妊娠・体調不良・退職】
 ところが、資格を取る前に自分が妊娠しました。もともと胃腸が弱かった私はつわりが辛く、満員電車での通勤も辛く、「自分の体を健康に保つこともできないのに、分娩介助や母児の命を守る仕事なんてできない」と思い悩むようになりました。妊娠したことにより、大好きな助産師という仕事を続ける自信をなくしてしまい、「職場に迷惑をかけるわけにはいかない」と心を痛めながら退職しました。
 日々、気持ちは後ろ向きになる一方で、「こういう風にマタニティブルーになるんだ」と痛感。このとき、大学病院で長期安静入院していたある妊婦が、「マタニティウェアは1回も着なかった」と、ポツリと語ったことを思い出しました。「仕事をバリバリして、お腹が大きくなっても妊産褥婦の看護をしたい! したかった!」との想いは大きくなるばかりでした。

【トコちゃんベルトとの出会い】
 妊娠中期を過ぎ、別の個人病院から助産師不足で手伝って欲しいと声をかけて頂きました。入院するほどの所見ではないものの、腹部の緊満感は初期からあり、収縮抑制剤の内服はしているし、逆流性食道炎もあり、つわり症状も続いているし、仕事に行けないかもしれない。当てにされても働けないかも知れない…、そんなことを面接で話したにもかかわらず、「それでもいい」と迎え入れてもらいました。仕事ができるようになった嬉しさのお陰でしょうか、不思議なことに分娩介助中も元気に過ごせていました。
 30週前後なのに「つわり大丈夫?」と言われるような小さいお腹。家に帰るとカチコチのお腹。この時の職場はトコちゃんベルトを取り入れていました。今から約9年前のことです。
 「あっ、そういえば」と、大学病院時代の同僚から聞いた骨盤ケアの話を思い出し、このときからトコちゃんベルトを着用し始めました。しかし、指導を受けての着用ではなく、パンフレットを見ながらの着用だったし、今思えば、元々自分の体の変化に鈍感だった私は、着用による変化にも鈍感でした。

【いろいろな職場を経験して】
 第1子出産後、単発のアルバイトをしながら、2歳になるのを機に真剣に職場探しをしたものの、自分にあった職場が見つかりませんでした。ちょうどそのとき、短大時代の恩師から「ぜひ、看護専門学校の教員に」とのお話を頂き、自分に務まるか不安が大きかったのですが、「子育てと両立するにはいいかもしれない」と思い就職。
 1年半ほどで第2子を妊娠。第1子ほどではなかったものの、つわり・切迫症状・逆流性食道炎は変わらず持ち合わせていました。幸い妊娠34週まで働くことができましたが、産休で退職することに決まっていたため退職。第2子の妊娠中もトコちゃんベルトは愛用していましたが、研修は受けられないままでした。第2子は34週で破水をしてしまい、早産。NICU管理となりNICUママを経験しました。

【研修受講】
 第2子出産数日前に大学院を受験していました。なんとか合格を頂き、研究テーマは「長期安静妊婦の筋力低下について」でした。医師、理学療法士の指導を受けながら研究を進めていく途中で、念願のメンテ“力”upセミナーを受講。骨盤ケアに興味津々となり、研究テーマを変えたくなるほどでした。
 そのままトコちゃんベルトアドバイザーの研修を受け試験に合格。晴れて自信を持って着用指導ができるようになり、現在の産婦人科クリニックへ就職しました。「もっと、勉強したい」と思い、「赤ちゃん発達応援セミナー」「基本整体1.2」「安産誘導セミナー」まで進み、第3子を妊娠しました。

【自分の体で体感してみて】 
 上の2人とは違って学んだことを活用しながら、セルフで骨盤ケアをし、腹緊はあるものの、頻繁に内服をすることなく済みました。しかし、硬い体を緩めることはできず、十分にメンテナンスできたわけではありません。それでも、産休前日の夜勤まで、大好きな仕事を休むことなく全うし、嬉しさ満杯、「骨盤ケア万歳!!」と叫びたいくらいでした。
 しかし、その1週間後の健診前より子宮収縮頻回となり、健診では子宮口開大傾向となり、一度は帰宅しましたが、陣痛様の収縮がきて、気づいたら5分前後の間歇、すぐに病院に戻り、点滴管理となりました。入院後から骨盤高位、操体法、頸の体操、自分の体で切迫早産妊婦の骨盤ケアを試し、大学院での自分の研究テーマも試して2週間を過ごしました。入院加療中に骨盤ケア体操をすると腹壁が和らいでいくことを体感することができました。妊娠37週まで点滴をしてもらい、翌日に出産しました。
 3人目は“まるまる育児をする”と決めていました。しかし、一度の研修を受けただけでは、実際にやってみると分からないことも多く、「らくらく育児クラス」の開催日程を調べて早々に予約し、研修の日を心待ちにして受講しました。そこで渡部先生に握り拇指を指摘され、個人施術を受け、それから今日まで、子ども3人を連れて定期的に施術に通っています。

【子育て経験を生かして】
 まるまる育児をしなかった上の2人は腹直筋離開がありますが、まるまる育児をした第3子だけは離開がなく、病院受診回数が劇的に少なく、一番健康です。同じように生まれ育っているようでも、当たり前のことですが別々の人間。8年前、4年前とでは私の体も違い、子育ての環境も違います。“経産婦だからうまくいく”のではない確かな違いを3人の育児で経験しています。
 過ぎた時間は戻せないので、第1子、2子にしてあげられなかったことを「今からでも取り戻すことは可能!」と、高輪サロンでの定期的な施術と自宅でのメンテナンスを続けています。時間がうまく取れず、完璧には行えていませんが、子どもたちが少しでも健康に育っていけるよう、もっともっと勉強を続ける計画を立案中です。
 「自分が経験したことを多くの人にも体験してもらいたい」「健康なマタニティライフ、安全な分娩、楽しい育児を送れるよう、すべての女性の一生に関わる助産師になりたい」そんな夢実現のために、より深い知識・技術を身につけ、心残りのない人生を送りたいと思っています。