愛知県の勤務助産師Aさんのコラム
ゆがみだらけで育った私は、巫女の舞と骨盤ケアで救われた

 
【はじめに】
 愛知県内のクリニックで助産師をしている、助産師Aです。4年前、当時働いていたクリニックで、受付スタッフを主な対象とする「骨盤エクササイズ教室」が、院長夫妻主催で開かれました。
 「受付スタッフの姿勢をなんとか改善できないものだろうか?」と院長夫妻が思われたようです。院長も腰痛持ちで「骨盤エクササイズ受け始めてから腰痛が楽になったから、貴女も一緒に受けてみたら?」と誘っていただき、私も受講させてもらいました。
 すると、その翌日には腰痛が消え、たった3か月でジーパンが3サイズダウン \(@@)/ この実体験をきっかけに、骨盤ケアの勉強を始めたところ、私自身の体の問題にいろいろ気付くようになりました。
 ところが次第に、「ゆがみだらけのまま育ってきた私なのに、手先だけは器用なのはなぜ?」との疑問が湧いてきました。そんな私を振り返ってみたいと思います。

【胎児期~幼児期】
生まれるまでの私は、母の話によると、
・母のお腹で32週までは骨盤位
・担当の助産婦さんが、ぐるっと回して頭位にしてくれた
・それ以降は頭位
・40週を過ぎても陣痛発来せず、陣痛誘発剤を使用
・吸引分娩で出生
 
乳児期は、写真や母子手帳によると
・縦に抱かれている写真が圧倒的に多い
・歩行器に入って遊んでいる写真がある
・母子手帳によると
 ・首が据わったのは2か月後半!
 ・ 8か月から伝い歩き
 ・10か月から独歩
 なんという早さ?! はたして、ハイハイをしていた時期はあったのでしょうか? 自分のことながら、首や背中のコリが心配です。

 食事の度に食器を落としたり、コップを倒したり…、「こぼさないようにね」と、毎食ごと両親に言われていました。指先の感覚がそうとう鈍く、固有覚の発達も悪かったんでしょうね、大人になった今でも「倒すといけないから、コップは自分の体から離れた所に置く」という癖が抜けないのですから、幼い頃のトラウマって恐ろしいものですね。

 小学校に入る前までは体が弱く、よく高熱を出す子どもでした。熱性けいれんで入院したことがきっかけで、“看護婦さん”にあこがれたことが、今の助産師という仕事につながっています。

【小中高時代】
 走るのは苦手でしたが、学校の教育方針で、毎日のように縄跳びをしながら過ごしたことと、「友達がやってるから」という理由で始めた水泳のおかげで、人並みに運動ができる体に育ちました。
 中学で入ったバレーボール部では、肩が弱くてサーブが入らず、足腰の筋肉が弱いせいか腰が落とせず、レシーブが下手で腰を痛めてしまいました。
 高校生になると、便秘や生理痛、肩こり、頭痛に悩まされ、『かわいいからだ』という本を愛読していました。今思えば、この本が「私が最初に出会った骨盤ケア」と言えそうです。

【看護学生時代~看護師】
 命が生まれる現場で働きたくて、助産師専攻科のある看護大学に入学したのですが、サークルでのバンド活動や学園祭実行委員の活動が楽しくて、勉強そっちのけで4年間を過ごし、助産師資格を取ることなく卒業しました。

 今から12年前の2004年、新卒看護師として配属されたのが、長野県内の総合病院の産婦人科病棟でした。大学で教わった「恥骨結合離開」と「腹直筋離開」を観察できていたにも関わらず、「産後には起こって当然!」と思っていたため、なんの迷いもなくウエストニッパーでぎゅーぎゅー締めていました。今となっては「とんでもないことをしていたなぁ」と冷や汗ものです。
 ところが、新人の頃から、採血や点滴が得意でした。当時は、先輩に「度胸あるね!」と言われていたので、「採血や点滴は度胸が大事なんだ!」と思っていました。

【助産学生時代~就職、うつ病】
 産婦人科病棟で看護師として2年間働いた後、地元の愛知に帰って2006年、助産学校に入学しました。助産学校では、背が高い上に下半身が弱く、分娩介助による腰痛に悩まされました…(c_c)
 2007年4月、幼い頃からの夢叶って助産師として総合病院の周産期センターに就職したものの、3か月でうつ病を発症し、9か月の休養の後、2008年の春、退職を決意しました。その後、保育園で看護師として2年間働いて元気になった後、2010年、以前とは別のクリニックに助産師として再就職したものの、3年半後の2013年のには、再び体調を崩して退職_| ̄|○
 再び、保育園や電話相談、実習指導員などのアルバイトをしながら約2年間過ごした後、2015年、今のクリニックにパート助産師として就職しました。波乱万丈な人生です^^;

【私は器用だったのかも!?】
 4年前に参加した「骨盤エクササイズ教室」の後、スリムになり、腰痛も消え、「骨盤ケアってスゴイ!!」と感じていたところに、トコちゃんベルトのセミナーがあるという情報が入りました。「骨盤ケアの話を詳しく聞いてみたい」との思いに体力が付いて行かず、体調不良、退職…資金不足。ようやくメンテ“力”upセミナーを受講したのが 2014年の秋でした。

 セミナー中、渡部先生は「S字状彎曲が弱い背骨の人は、側彎ができやすく、指先の感覚が鈍い人が多い」という話をされました。「これって、まさに私のことだ!」と思いながら、受講者と一緒に触診実習を始めました。ところがすぐに、「私って、実は指先の感覚が敏感で、手先が器用だったのかも!?」と不思議な感覚に包まれました。
 それまでは、イラストやハンドメイドが得意なのは「好きだから」、採血や点滴は「度胸があるから」、内診が得意なのは「想像力豊かだから」だと思っていました。
 食器を落としたりこぼしたりしてばかりだった記憶のせいで、「自分が手先が器用な訳がない!」と、勝手に思い込んでいたのかもしれません。今思い返せば、小学4年生の頃から突然、習字で表彰されるようになったり、イラストがうまく描けるようになりました。

【巫女体験が私を変えてくれた】
 そんな疑問をいっぱい抱えた私が、ハッとしたのは、信子先生のブログ
「魔女のひとりごと」の、2016年3月15日の記事を読んだときでした。
   ⇒ http://blog.ap.teacup.com/majyosanba/1282.html
 「そうだ、巫女の舞の扇子回しだ! あれが私の指先の感覚を育んでくれたんだ!」と気づいたのです。

 私は4歳のときから5年間、地域のお祭りで巫女役を任されていました。巫女の舞の一番の見せ場は“8字高速回し”です。両腕を伸ばして親指と人差し指の2本で扇子を持ち、手首を使って2枚の扇子を8の字に回すという難しい技です。家族の期待に応えたい一心で、夏休みには毎日100回ずつ“8字高速回し”の練習をしていました。

 正しい発達段階を踏めずに胎児期・乳児期をすごした私ですが、巫女の舞、縄跳び、水泳…と、偶然にも自分に必要なエクササイズを経験しながら成長したことは、幸運としか言いようがありません。そんな私が、大人になり助産師になってから骨盤ケアに出会ったのです。初めてメンテ“力”upセミナーを受講した日、母が話してくれた妊娠中の話や、自分の成長発達の話がつながりました。

【脱うつ病、夢を抱きながら生きる】
 現在働いているのは、骨盤ケアを積極的に取り入れているクリニックではありません。でも、自分の持つ知識と技術をフル活用しながら、試行錯誤でケアに当たっています。
 自室内のトイレまで歩けなかった産後のお母さんをケアし、ナースステーションまで歩けるようにできたことがきっかけで、スタッフからは「骨盤先生!」と呼んでもらえるようになりました。

 体の痛み・ゆがみ・筋肉の弱さのおかげで、味わった様々なつらい体験があるからこそ、「人様に伝えていけるんだ」、むしろ、それらの体験は「今の私にとっては財産なんだ」と思えるようになってきました。
 少しずつですが、骨盤ケアに価値を感じ、興味を持ってくれるスタッフが増えてきたことで、働き学ぶことがますます楽しくなりました。去る7月27日(水)、トコちゃんベルトアドバイザー養成セミナーを受講し合格。「これららも学び続けていきたい!」との気持ちがますます膨らんできました。

 「これから生まれてくる赤ちゃん達には、快適な体で生まれて来てほしい。快適な体に育ってほしい」。これが私の願いです。職場では「スタッフ全員で骨盤ケア・まるまる育児に取り組めるようになるといいなぁ~」と思っています。「いつの日か、私もそんな子育てをしてみたい。自分が体験したことや、自分の子育ての経験を伝えながら、地域で困っているママや赤ちゃん達を助ける仕事をしたい!」という夢もできました。
 そして、何よりも嬉しいのは、骨盤ケアを学び実践する中で、うつ病の頃は決して抱くことができなかった“夢を抱くこと”ができるようになり、納得の人生を歩める私に変われたことです。