トコ助産院で働く助産師 今西智代先生のコラム
トコ助産院にやって来るまでの私

 
 皆さまこんにちは、トコ助産院の助産師 今西智代です。信子先生の施術補助をしていたある日のこと、「メルマガのコラムを書いてよ!」と声をかけていただきました。貴重な場を与えていただき、ありがとうございます。少々お付き合い下さいませ(*^_^*)

【なぜ助産師に?】
 私がなぜ助産師になろうと思ったのか? それはまず、生い立ちを語ることから始まります。岐阜市内にあるとある産婦人科医院で生まれた私は、幼い頃は体が弱くて、しばしば入院するような子どもでした。
 ひと昔前の「町のお医者さん」は、地域に密着していて、風邪でも怪我でも何でも診てくれましたよね? 私の家族の「掛かりつけのお医者さん」は、なんと、その産婦人科の先生だったのです。優しくって、俳優の宇津井健さんによく似たダンディーな先生でした。その先生をいつも頼っていたものですから、私が夜中に脱水症状で大変な時も、先生は眠い目をこすりながら診察や処置をして下さり、「今晩は泊まって行くか~?!」なんて感じでした。
 点滴をして数日もすれば回復してしまいますから、私はうろうろと院内探検していました。赤ちゃんがずらりと並んだ新生児室の片隅に、青い光を浴びている赤ちゃんを見て、「何であの赤ちゃんはあんな箱に入って、青い光を浴びてるの? 何で目隠ししているの?」と、子どもながらに不思議が一杯。なぜ? なぜ? なぜ? がいっぱいの、ワクワク入院生活でした。

 そんな私が小学4年生になった頃、ふと気づくと母のお腹がふっくら大きくなっていたのでした。小さな命が母のお腹の中にいる! 子どもながらに生まれてくる日をとっても楽しみにしていました。
 台風が迫ってきそうな9月のある夜のことでした。トイレから「破水した!」と、母の声が聞こえてきました。「ただ事ではない!!! 大変!!!」と4年生ながらに察知し、長女気質なのか、ただの心配性なのか、学校でも落ち着きませんでした。
 すぐに生まれるものと思っていたのに、なかなか赤ちゃん誕生の知らせは届かず、父に聞くと「カーテンが閉まった薄暗い部屋で、お母さんは陣痛にうなされながら頑張っているよ」と。私の「なぜ、なぜ?」が久しぶりに浮上しました。
 学校が終わって母のもとに駆けつけると、なぜか部屋の電気も点けてはいけないらしく、カーテンは閉めきったまま。父の言うとおりでした。陣痛のたびに苦悶様表情を浮かべる母を見つめながら「死んじゃうの?」と、心配しながら帰った私でした。母は今で言う妊娠高血圧症候群だったのです。
 まさにその時、小学4年生の私は「赤ちゃんを産むって大変なことなんだ!」と刷り込まれ、「出産に関わる仕事をしたい! いろいろ知りたい!」と思ったのです。この体験が今私が助産師として存在することにつながっています。
 ちなみに母の第3子は、3日目の明け方、無事に生まれました。父にとっては少々ガッカリの三姉妹の誕生でしたが、私はとっても嬉しかったですよ(*^^)v

【先輩助産師との出会い】
 看護学校での実習で一番興味深かったのは、やはり母性の病棟実習でした。新生児室実習で、哺乳瓶洗いをしていた私に、いつもお母さんみたいな存在の新生児室の主任さんから声をかけられたのです。「あなた、助産師になってみたらぁ~。なんか楽しそうに実習してるやん!」と仰るではないですか。
 私は主任さんにその意志があることや、母性実習が楽しくて楽しくてしょうがないことなど、いろいろと話をし、「絶対にこの病棟スタッフとして帰ってきます!」と約束したのです。
 そして1年後、晴れて助産師として、この主任さんの下に配属されました。産婦人科病棟でしたので、生と死、喜びと哀しみの両方が混在。感情のコントロールが大変だったことを記憶しています。

 ところが、助産師ですので産科部門での勤務が年々多くなり、それにつれて、いつの頃からか私の心の中に、「長年働いているのに、産婦さん達に筋が通った母乳指導を提供できない!」との葛藤が渦巻くようになりました。そんな日常からの脱却を目指し、長野県の諏訪マタニティクリニックで、1年間の助産師卒後研修を受ける決意をしました。

 その研修生の先輩の中に、現 愛知県岡崎市のミルキー助産院 院長 山川不二子先生がいらっしゃいました。私事ですが、今から15年前に結婚を機に再び京都での生活になりました。そのよしみで大阪で開催される山川先生のセミナーにアシスト参加するようになり、何度目かのある日、運命的な出会いが待っていました。なんと、ゲスト講師として、当時の母子整体研究会の渡部信子代表が来られていたのです(*^_^*)
 その日、控室で挨拶したのが信子先生との初対面でした。その頃の私は妊活中で、助産師とは違う仕事がしたくて就活中でもありました。それを知った信子先生は、「じゃあ、母整研の事務局に来てよ~」と声を掛けて下さり、事務局での仕事をすることになりました。
 助産師心をくすぐるような母整研セミナーは、やはり気になるもので…、セミナー受講申込みの手続きをしつつ、自分の申し込みをしていたことは言うまでもありません。セミナーを受講して骨盤のセルフケアに励み、またある時は信子先生や博樹先生に施術をしてもらいながら、妊活に励みました。
 なかなかの骨盤のゆがみがあった私! セミナーで数回壇上に挙げられてゆがみモデルに選ばれたこともありました。信子先生からは「しっかり骨盤ケアせんかったら妊娠せんで~!」とも言われ、心が折れそうになりながらも、日々ケアに励みました。

 そんな生活が2年ほど続いたある日、妊娠が発覚! 治療の手も借りながらでしたが、2卵性の双子妊娠に至ることができました。妊娠を機に、一旦専業主婦となって育児・子育てに奮闘することとしました。様々な場面で私は会うべき先輩方に会えているように思えます。私にとってこの数々の出会いは、まさしく宝物です。

【専業主婦からちょこっと脱出】
 助産師であっても、母親業は素人と同じです。先日の上野順子先生の“技”秘伝セミナーで、「私達だって助産師じゃなくて、『お母さん』になればいいよ~」というお話がありました。その言葉! 出産後すぐに聞きたかったなぁ~。

 双子を帝王切開で出産した私を心配して、山川先生が岡崎から新幹線で駆けつけて家まで来て下さったことがあり、ガチガチの体に手を当ててくださいました。体だけでなく心も癒されてホッコリしたのを覚えています。
 今思うと、双子の子育てに休みなく真正面からぶつかって、自分自身に“遊び”がなかったですね。少しばかり余裕ができたのは、卒乳してからでしょうか? それから間もなく、双子達は幼稚園に入園し、ほんの少しだけ自分ひとりの時間を持てるようになりました。
 幼稚園の行事などに参加して、社会の中にいる実感を得て、子育てにも楽しみを見出せるようになりました。ママ友とのティータイム・ランチの時間は、子育ての悩みを持ち寄ったり、嫁姑問題の愚痴や他愛もない話をするくらいでしたが、日頃のストレス解消にはなっていたように思います。幼稚園では役員にも選ばれて親子共々忙しく、充実した生活を送りました。

 双子達が小学校に入学すると、ますます私の時間も増えてきました。と、共に1年生のときはクラスの役員に、2年生では地域の役員に選ばれて、学校や地域にご奉仕する日々を送っていました。
 ちょうど双子達が2年生に進級した年の夏だったでしょうか? 信子先生からの突然のメールで「そろそろ助産師復活してみたら? うちの助産院に来てみない? どう?」と助産師復帰のチャンスを下さったのです。時を同じくして、私もナースバンクに登録したところでした。
 しかし「私にできることがあるのだろうか?」との不安を抱きながらも、信子先生の胸に飛び込んでみようと決心。なんと10年以上のブランクからの助産師復帰でした。こんな私ですが、スタッフの皆さんに支えられ、なんとか今日までやっています。

 専業主婦だった頭を切り替えるのは容易ではありません。私は今、必死にセミナーの受講をしながら、新しい知識を詰め込んでいます。更に、双子たちが3年生に進級するとともに、私の方は学校本部のPTA役員に選ばれました。今まで以上に忙しく頑張っています。
 双子達は、そんな私の姿を見てなのかわかりませんが、2人揃って学級委員に立候補。女の子の方は、七夕の短冊に「お母さんのようにじょさんしさんになれますように」と書いていました。
 学校のこと、家のこと、そしてそして助産師としての仕事を、毎日バタバタとこなしている私の背中を見て、そんな風に追っかけてくれようとしたのならば…と、嬉しさと誇らしさで一杯です。

 トコ助産院では、これまでは毎月1回の赤ちゃん体重測定会や、赤ちゃんお迎えクラスなどの講師をしたり、トコ助産院のブログ記載などの業務を担当しています。これからは、母乳外来の担当もできれば…と、考えています。
 また、トコベルアドバイザー・まるまる育児アドバイザーの資格も取得できました。今年1月からはマニュアルセラピー、来年の4月からはベーシックセミナーも頑張ってみようと思っています。

 私の小さな夢ですが、昔から変わらない信子先生の“神の手”、山川先生の“癒しの手当て”を、少しは真似てできるようになりたいと思っています。そしていつの日か開業…? なんて夢も抱きつつ。
 こんな私ですが、皆さまどうぞよろしくお願いいたします。