千葉の開業助産師 坂本真理子先生のコラム
幅広い看護経験を肥に、母子ケアペシャリストとして独立開業

 
 皆様はじめまして、千葉県浦安市の助産師 坂本真理子です。舞浜駅から東京ディズニーリゾートに向かう方とは反対方向に15分ほど歩いたところに自宅兼サロンを開業しています。

【第1子の産後1年で分娩の場から離脱】
 私が助産新卒で選んだ就職先は、私立大学病院の周産期病棟でした。最もやりたかった分娩を選んだものの、ここでは助産師の評価基準は「いかに医師の補助ができるか?」でした。「これでは自分が潰れる」と悩んだ末、9ヶ月で退職し民間産院に移りました。
 ここは当時月100件前後の分娩を10人の助産師で当たっていて、今では稀な骨盤位分娩、VBAC、双生児分娩もあり、夢に見た仕事ができました。卒後2年目に結婚、3年目の年末に出産し4月1日に復職、育児時間を使って産前同様に楽しく働きました。当時の保育事情は厳しく、1歳の誕生日で育児時間は終了、保育園は親の正規勤務時間を超える保育は認められませんでした。在園するためには残業のない職場に移らざるを得ず、後ろ髪引かれる思いで退職し、残業のない仕事探しが始まりました。

【双子を出産、助産師業務から看護師業務にシフト】
 分娩のあるクリニックで残業ゼロは望むべくもなく、とりあえず国立病院のパート看護師をしながら、週1回の夜勤で分娩介助を始めました。しかし、給料は安く、考えあぐねていたときに目に入ったのが都立病院の看護師募集広告でした。「もしかしたら産婦人科に配属してもらえるのでは?」との期待を胸に中途採用試験を受け合格、公務員という保育措置に有利な職業に就くことができました。
 看護科長が助産師だったということもあり、最初は産婦人科病棟に配属されましたが、分娩は月10件程度。難しくない婦人科疾患などが混在する“女性病棟”の中で、分娩と終末期の看取りが重なると、私の仕事は看取り。これはこれで、民間産院ではできない学びや経験ができました。
 生活と保育は安定したものの、私の仕事はここからが波瀾万丈。就職1年後で一卵性双生児を出産し、育休に入ると認可保育園からは「育休とるなら退園を!」と迫られ、産後は“針のむしろ”の日々を送りました。産休あけ後の3ヶ月間は体調不良のため在園させてもらえましたが、産後6ヶ月の双子の措置決定と同時に復職しました。

【看護師として全科の仕事をこなした12年間】
 この時の職場の看護科長は看護師で、帰宅しやすさと休みやすさを優先しての配慮か、放射線科外来へ配属されました。心臓カテーテルとアンギオの仕事を中心に、暇なときは手術室の“外回りの外回り”的な仕事や、外科・泌尿器科の仕事をしたり…。20代後半という程良い若さも手伝い、大学病院時代のように「お産ができない」といったカオス的感情はなく、3児の育児と目の前の仕事を楽しんでいました。
 「都立病院の外来看護師は、全科の仕事ができなければならない」との方針のもと、混合内科病棟・人工透析室・内視鏡室…と転々とし、否応なしに勉強せざるを得ない毎日を送りました。
 当時、都立の全病院で産科の大幅閉鎖が進み、団塊の世代の大量退職前に看護師を確保するために、産科の助産師がどんどん他の部署に異動させられました。「助産師氷河期」の真っただ中、「産婆カ(さんばか)と揶揄されてたまるものか!」と、必死で勉強して業務をこなしたことが、結果として「対象を包括的に診る」というスキルアップにつながったと思います。

【骨盤ケア・整体を学んだきっかけ】
 私の2回の妊娠・出産では“骨盤ケア”という概念は知りませんでした。双子の産後に某MLで渡部信子先生の投稿をたまに見かけ、「そういうアプローチもあるのだな」という程度に眺めていました。何しろ12年間も周産期医療から遠ざかっていたので、知るきっかけもなかったのです。
 今から6年前、双子が10歳になった時、「都立病院を退職して助産師に戻ろう! フリーランスで働こう!」と決意。流石にブランクは長く、分娩の場に足を踏み入れる勇気はありませんでした。「まずは薄給でもいい」と割り切り、経験したことのない新生児訪問の仕事を探し、縁あって2自治体と契約し、さらに生活費のため重症心身障害児の在宅看護も始めました。しかし「やっぱり地域で母子ケアをしたい」との思いが強まり、重心児看護は2年で引退。スキルアップを目指し、2012年3月に埼玉川口のメンテ“力”upセミナーを受講しました。
 渡部先生の講義は、初受講者の感想でしばしば「目からウロコ」と表現されますが、私は「そうそう! そう! 学校で習った!」という、「水を得た魚」のような感覚を覚えたことを今でも忘れられません。蘇生した魚はそのままトコ・カイロプラクティック学院に向かい、トコちゃんベルトアドバイザー⇒ベーシック⇒カイロプラクティックへと進み、今年の2月に交感整体修了に至りました。「4年も学び続けている」という実感はあまりなく「気がついたら4年経っていた」という感覚です。

【舞姫助産院と、母と子のケアサロンmothermoon 開業】
 都立病院退職後に「とりあえず母乳と保健指導」で開業届は出したものの、「テイクケアをメニューに入れよう」と思ったのは、まさにメンテ“力”upセミナー受講がきっかけでした。セミナーで学びながら、新生児訪問や母乳相談時に、骨盤ケアの「話し方練習」を続ける中で、独立開業願望は高まるばかり。
 すると、「出張だけでなく、施設を持ちたい!」と思いが高まり、2013年の夏、都内から浦安市舞浜の戸建に転居し、自宅を兼ねたサロンを開設しました。
保健所と関係法規の関連を事前検証し、助産院と整体の関係は「助産院がプロデュースする整体サロン」としています。
 「出張専門」ではなくなっただけで、劇的に依頼が増えました。今も出張対応のお客様がほとんどですが、「出張も来室もできる」という選択肢の広さや、「施設を持っている人」との信頼感の高まりでしょうか。

 サロン開設当初、骨盤ケア教室を月に2~3回開催していました。しかし、教室では難しいケースの個別施術依頼が増え、今は個別施術と、施術会員さん達が立ち上げた“骨盤ケア&まるまる育児サークル”のフォローで手一杯です。集団教室は運営に手間がかかるので大変ですが、サークル主催となったことで施術に専念できるようになり、技術研鑽の余裕も生まれました。
 フリーランスでいたいのは、「自分が自由でいたい」ことが最大の理由です。私事では、娘の試合遠征を引率しているので、時間とお金を要します。母子整体での開業だと自分の“勤務表”を自分で決められる上に、とても効率が良く、多額の出費も何とかなります。しかも、爽快な日々を送れますので、私のようなライフステージの方には、とってもお勧めです。

【看護師として働いた経験が肥に】
 卒後もうすぐ25年、そのうち11年は母性以外の領域にいました。その間は助産師として働けないカオスもあれば、住めば都の楽しさも満喫したりと、それなりに充実した年月を送りました。しかし、私が一貫して目指していたのは“ホリスティックな視点を持つ助産師”です。そんな自己確立のための「運命の寄り道だった」と受け止め、「これだけ多くの科の仕事を経験し学んだケア師は、全国に私の他には未だいないのでは?」と自負しています。
 それでも心の片隅に経験値の物足りなさがあり、未経験の仕事のお話をいただいたら「ご縁!」と思って挑み続けています。最近、ビジネススクールの非常勤講師を引き受けました。19~20歳の女性の「妊娠・出産に対する意識」に直に触れることができ、妊活などのケアアプローチの肥になっています。

【潜在助産師からケア師を目指すあなたへ】
 私は潜在助産師でいることの辛さを、身を持って感じてきたからこそ、これからケア師を目指す人達を応援したい気持ちでいっぱいです。今“潜在助産師”の皆さん、「潜在中の経験値が助産師としての豊かさに必ずつながる」と信じてください。それは専業主婦としての経験値であっても、医療外の仕事の経験値であっても、同じだと思います。
 私達がケアする対象は“一生活者”に他なりません。看護診断にもない項目を診て判断できなければなりません。そこで助産師以外の経験値がものを言うのです。今までの生き方働き方に自信を持って下さい。
 助産師の原点はお産を助ける「黒子」です。ケアを提供した本人が感じなくても、対象のQOLが向上しているということが大切です。

【私の夢】
 「時代の変遷でヒトの身体が劇的に変化した」といいますが、要は、教科書編集が追いついていないだけのことだと私は思います。公開エビデンスを待っていては、ケアが追いつくわけがありません。だから私は、子育てが終わってもフリーランスでいます。
 ケアの前段階「メンテナンス」から考えていかなければならないのですから、新生児訪問なりクリニックのパートなりを続けながら、母子整体の個人事業を続けていきます。歳をとればとるほど「井の中の蛙」になりがちなのは誰でも同じですから、敢えて専業にしないことで、時代に沿ったケアを提供し続けたいのです。そして、「空の高きを知る助産師」として歩み続けたい…、これが私の夢です。