東京都フリー助産師 樋ノ口 如子先生のコラム
私の人生、波乱万丈?! 
警察官から助産師へ、そして、難病とともに歩む運命に

 
【警察官として働いていた20代】
 私の社会人としての第一歩は、女性警察官でした。所轄の交通課で取締りや交通安全教室、本部広報課では音楽隊カラーガードの一員として従事していました。
 警察官には武道が必須でしたので、しぶしぶ合気道を選択。体が硬く体育も大嫌いな私は、「自分の体は何か人と違う…」と感じていました。そんな私にとって、合気道の時間は苦痛以外の何ものでもありませんでした。それでも三段を取得した私ですが、受け身を取るときには特に、「違う。人とは違う」と感じていました。
 カラーガード隊員は一見華やかに見えますが、パレードや行事以外は毎日体育館での練習地獄。バレエの要素を含んだダンスには特に不自由を感じませんでしたが、フラッグを回す、トスをするときに「人と何か違う」と感じていました。
 大きなイベントでは、観客が満員の大事なステージにもかかわらず、トスした後のキャッチに失敗し、「バタン!」とステージにフラッグを落としてしまうことがたびたびありました。「あんなに練習したのに…(>_<)」と心で泣きながら、「本番に弱いだけの私なんだ」と、ただただ自分を慰めていました。
【運命の分かれ道】
 29歳の時、父が膀胱癌に罹患したことを機に、警察を退職しました。それまで無縁だった病院とのお付き合いが始まり、私は医療関係者に対し様々な思いを抱くようになりました。死に逝く患者にひどい対応をする看護師、「いつでも電話していいよ」と家族のケアにも全力の医師。
 人に接する仕事をしていた者として、その看護師の対応が許せませんでした。正義感が強すぎる私は、「このままじゃダメだ。私が何とかしないと! 一度しかない人生だから、自分の思う通りにやろう!」と看護師になる決意を固めました。
【30代、またまた進路変更】
 父が他界し本格的に受験勉強を始めましたが、元々文系の私は数学が苦手。そこで思いついた策は、「まずは准看護師になろう!」と決めました。准看学校に入学し、母性実習で分娩に立ち会ったことが、またまた運命の分かれ道となりました。何とも言い表せない感情が沸き上がり、今度は「そうだ、助産師になろう!」と決心したのでした。
 めでたく准看護師になり総合病院へ就職。33歳で結婚。その後、正看護師への進学コース、助産師学校へと進み、38歳で念願の助産師になり、勤務していた病院で再度働き始めました。
【不妊治療との闘い】
 40歳も近づいているというのになかなか子どもに恵まれない私達夫婦。不妊専門クリニックに通い、夫婦双方に問題があると判明しました。それからは、一喜一憂しながらの治療の日々。その間、整体・カイロプラクティック・鍼灸に通い、漢方薬・健康食品…、良いといわれるものは全て取り入れました。
 カイロプラクティックの先生には、「これほどのストレートネックなのに、頭痛がないなんて、信じられない」と言われましたが、自分がそこまで酷いストレートネックだったとは知りませんでした。治療は、AIH(配偶者間人工授精)ではうまくいかず、専門職として知識のある私は迷わず顕微授精を選択。神様は頑張る私達を裏切りはせず、38歳で妊娠することができたのです。
【妊娠骨盤ケアのお陰で、妊娠・分娩を乗り切れた】
 胎動を感じ始めた頃に腰痛がひどくなり、先輩助産師に「早くトコちゃんベルトを着けなさい」と言われ、毎日トコベルを着けて病棟勤務をしていました。体の悪い私は、お産近くになってもカイロプラクティックに通っていました。この頃、「骨盤のところにこれを当てるといいよ」と、カマボコ型の枕を渡され、家ではその枕の上でゴロゴロしていました。
 分娩は、前期破水したため促進剤を使用しました。高齢初産だから促進しないと産まれないと医師は思ったようです。分娩第1期のケアにあたってくれたのは、かつての母整研で学んでいた先輩助産師でした。彼女は私の足趾回しを必死にしてくれました。「先輩、何やってるんだろう…?」と思いながらも、お産が順調に進む自分の体に「すごい!」と感じていました。
 促進剤を使用しているとはいえ、高齢初産の私が7時間で産むことができたのは、「他でもない、これらのケアのお陰だったのだ!」と、ベーシック受講中に知ることになるのです。
【この体をなんとかするために】
 産後も整体通いをしていた私は、「まずは自分の体をなんとかしたい」とメンテ“力”upセミナーを受講し、その後は、迷わずベーシックセミナーへと進みました。ベーシックを修了して2か月後、ひどいめまいと痺れに襲われ、検査の結果「多発性硬化症」と診断されました。
 多発性硬化症は10万人に7~8人が発症し、原因は不明だが、自己免疫疾患と考えられている難病。あまりのショックに打ちのめされそうなりながら入院の準備をしていたその時、私はふと思いついてメンテ“力”upセミナーのレジュメを開きました。「やっぱり…」。全身のゆがみが招く症状のところに、「自己免疫疾患」と載っていました。
 「症状が出る(=再発)と、症状が治まる(=寛解)」を繰り返し、徐々に悪化していくこの病気。「私の体はこの先どうなるのか?」と、退院後も不安でいっぱいでした。ところが、渡部先生が「メンテ“力”upセミナーにアシスト参加するように」と誘ってくださいました。不思議なことに、セミナーに参加した日は、痺れが消えたのです。ところが、仕事に行くと痺れが酷くなる。。。「これはどうも心の持ち方や、体の動かし方も関係しているのでは?」と思うようになり、病院を退職し保育園へと転職しました。
【現状維持が大事】
 現在はカイロプラクティックセミナーを受講中ですが、体を使って技を決めるときに、合気道の足の運びが役に立っています。また、手首を解すために取り入れられているバトンも、フラッグを回していた経験が役に立っています。
 20代の頃、「何か、人と違う」と感じていたことは、「そう、すべては体の悪さだったのだ」と、骨盤ケア・整体を学ぶようになって初めて知りました。有難いことに、セミナーで学んだセルフケアを日々実践することで、病状も大きく悪化することなく経過しています。
 【10月、初のトコちゃんの骨盤ケア教室】
 八王子のある多摩地区は車社会で、歩かない人が多いのが現実です。車通勤者が多く、歩いて5分のスーパーにすら車で行く人もいます。実際、私もそうです。緑は多く広い公園もたくさんありますが、子どもを遊ばせてママ達はおしゃべり、なんて場面は当たり前です。
 これでは健康で自分らしい人生を送れるとは思えません。それに、骨盤ケアは妊婦だけに必要なものではありません。病気にならないためにも、若さや美しさを保つためにも骨盤ケアは必要です。多摩地区の全ての人々が楽しく体作りに取り組めるよう、そのお手伝いをしよう。そうすることで、私も元気になれるのではないだろうか…?
 こんな思いを胸に、八王子でトコちゃんの骨盤ケア教室を始めました。市外からの問い合わせや参加者も多く、骨盤ケアの需要の高さを感じます。上野順子先生が活躍されている青森県と変わらないのかもしれません。最近の妊婦さんはトコちゃんベルトを「太ももに近い位置に巻いた方が気持ちいい」と言う方が圧倒的多数です。これが全てを物語っているのではないでしょうか?
【これからの夢】
 セミナーなどで渡部先生と会うたびに、先生は「大丈夫やで~、ちゃんと動ける体になるようにメンテナンスを続けたら、きっと良くなっていくで~」と、励ましてくださいます。症状が酷かったときは顔のシミもどんどん酷くなっていき、鏡を見るのも辛い日が続きました。でも、症状が改善して大好きな骨盤ケアの仕事をしていると、日ごとに顔のシミも薄くなり、体も心も軽くなっている今日この頃です。
 近い将来、助産院を開業するのが私の夢でもあり目標です。難病とともに人生を歩まなければならない運命を背負いましたが、「夢は叶えるためにあるもの!」と、これからも知識と技術の習得に精進する所存です。